ネヴァーランドはマーダーランド

 

 

『ティンカー・ベル殺し』小林 泰三著を読む。

 

『ピーター・パン』と聞くと子ども向けミュージカルの定番コンテンツ。
ディズニーのアニメ版に刷り込まれたぼくはピーター・パン、ウェンディ、ジョン、マイケルと一緒に憧れの国ネヴァーランドへ行ってフック船長らと戦いたいと思っていた。

 

毎度おなじみ蜥蜴のビル=大学院生・井森は今度はネヴァーランドに行く夢を見て、
結果、ピーター・パンたちに連れて来られる。何せ蜥蜴、拉致するの簡単は。
そこはパラダイスかと思ったら真逆だった。ヒーローだと思ったピーター・パンは実はサイコパスだった。


マーダーランドで愛くるしい妖精・ティンカー・ベルが惨たらしく殺される。
ピーター・パンと蜥蜴のビルが組んで犯人を捜す。

 

その頃、地球では井森は小学校の同級会に招かれる。山深い温泉宿。
井森を覚えている者は皆無に近かった。
大雪となり、道路は閉鎖、電話や携帯電話がつながらなくなる。
ネヴァーランドの連続殺人とリンクして宿でも殺人事件が起こる。
外部からの侵入者はいない、来れない。犯人はこの中にいる。
お決まりの密室殺人事件。

 

『〇〇〇殺し』シリーズでの物語のキャラとそのアーヴァタールとなった人間。
既作ではどことなく名前が似ていた。ゆえに、担任教師だった富久は、フック船長のアーヴァタール、同級生の日田はピーター・パンのアーヴァタールと安直に思っていたら違った。

 

井森と日田の会話を引用。

「「なぜ、ピーターは平気で殺人を犯すんだ?」「それは、それが悪いことだと知らないからだよ。ピーターはこの世界の住人じゃない。殺伐としたネヴァーランドに住んでいるんだ。あそこの大人たちは平気で子供を殺すんだ。そんな世界で殺人を覚えるのは不思議じゃない」」

 

「本当は恐ろしい」のはグリム童話だけじゃなくて、『ピーター・パン』もそのようだ。つーか民話につながる童話ってオリジナルは、みな怖いんじゃないかな。

 

ティンカー・ベルの羽根を見るとウスバカゲロウの透き通った羽根を思い出す。
著者の『〇〇〇殺し』シリーズも、著者の逝去により打ち止めとなった。残念。

 

ネタバレになるけど、最後にいちばん恐ろしい人喰い熊が出て来る。
熊に襲われる富久。死んだかと思うと、息を吹き返してまた熊に襲われるという無限ループ。生き地獄。因果応報か。

 

作者が本作の「モチーフ」にした2作品。
ケンジントン公園のピーター・パン』ジェームズ・マシュー・バリー著 南條竹則
『ピーター・パンとウェンディ』ジェームズ・マシュー・バリー著 大久保寛

 

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コーランやイスラム教を知るには絶好の入門書

 

 『コーランを知っていますか』阿刀田高著をつらつらと読む。

作者が日本人にはなじみの薄い、というよりも名前は知っているけど、
中身に関してはほとんど知られていないコーランを噛み砕いて紹介している。

はじめに、こんなエピソードが出てくる。

 

「「昔、あるとき、敬虔なイスラム教徒と話をしていて、
「異教徒と結婚しちゃ、いけないの?」
と、尋ねれば、
「駄目です。ユダヤ教徒キリスト教徒なら許されるけど」
「えっ?仲わるいじゃない」
  ―略―
「でもユダヤ教キリスト教も同じ一神教ですから」」

「「仏教徒は?」
「いけません。多神教だし……仏教は宗教じゃないのとちがいますか。あえて言えば哲学……。
人間が考えたことです。イスラム教は神が直接伝えたことですから」
ユダヤ教も、キリスト教も、そうなんだ」
「はい。同じ一神教です」
同じ一神教なら、その神がみんなアラーだと考えることもできる。もともとユダヤ教キリスト教と、
イスムラ教は関わりの深い宗教でもある」」

 

日本なんか八百万(やおよろず)の神がいて、鍋・釜にも神が宿ると信仰されているのに、そんなのはもってのほからしい。
イスラム教が偶像崇拝しないゆえに、バーミヤンの仏教遺跡を破壊した。
行為の是非はともかく、そういう教義なのだ。

じゃあなぜ、近しい関係にあるユダヤ教キリスト教といまもなお揉めているのか。

「「イスラムの場合は、ほとんどが預言者のお話、しかも、そのあらかたが旧約聖書[ユダヤ教聖典も同じ]の登場人物である」

「「旧約聖書を利用している」と言われても仕方のない情況なのだが、コーランの立場は“ユダヤ教[キリスト教も]を否定するものではなく、完成するものである”なのだ。ありていに言えば、ずーと昔から[時間を超え空間を超え]同じ唯一神の支配が続いているのであり、ユダヤ教とかキリスト教とか、いくつかのプレゼンテーションがあって神は預言者を何度も地上に送って警告を発し続けたが、いっこうに教えが実現しなかった。そこで最後にして絶対的な教えであるコーランを送り、同じく、最終にして絶対の預言者マホメットを遣わして今までの教えを完成するのだ、なのである」」

最終兵器ならぬ最終経典であり、最終預言者を有しているのがイスラムなのだと。

作者がいうように、やはりモスクでアラビア語で聴くコーランの響きに敬虔な美しさがあると想像するのは難くない。けど、ザルツブルグの教会か街の片隅から流れてきた賛美歌とて同じように心が洗われる美しさを同様に感じてしまえるのだが。宗教オンチのぼくには。頭に乗って書き続けるなら、義父・義母の葬儀のとき、近隣の人たちが集まってのご詠歌には、深く感じ入った。

「(コーランでは)利子を取ることについて絶対的な否定が示されている。が、資本を投入し、商売をやって利益をうるのは正当な商行為として認可されているのである」

なぜ(コーランでは)利子を否定しているのか。

「-貧しい人を救うには、どうしたらよいか-仕事を与えること、施しをおこなうこと、それも大切だが、根源的に金利というシステムが貧富の差を生んでいる。金貸し業で暴利を貪る者は(ユダヤ人ばかりでなく―ソネ註)アラブ人の中にもいた。これをなくさなければ本当の救済とはなるまい。」

しかし、ユダヤ人がなぜ金貸しなど「経済力」に秀でたのか。
それは

ユダヤ人は一世紀の後半に、長年のすみかであったパレスチナ地方の祖国を追われ、
世界の各地に散った。国を持たない民族…。こういう運命を背負った民族はたいてい行った先々で融合され、混血などもあってオリジナリティを失ってしまうのだろうが、ユダヤ人はおのれの神を信じて独自性を保ち続けた」
「国家がなければ、自分で自分を守るよりほかにない。そのためには、お金が肝腎だ」と。

 

「アラーは鋭い。経済学の本質を見抜いていた。マルクスもびっくりするほど……。
金貸しと商行為のちがいは、後者には労働が必要であり、リスクをともなう」

と書いて作者もやはりこの問題の大きさに考えが止まってしまったようで、こう述べるのみ。
ここから先は経済学者や社会学者の出番なのかなあ。

「とにかく理念としてはコーランの掟を守ってお金がお金を生む弊害を軽減し、
貧富の差を小さくしようと、企てている」

ありがたい企てではないか。金貸しは正当な商行為ではない。とするならば、
はてさて、消費者金融会社はもとより銀行は、この教えをどのように受け止めるのだろう。

「イスムラ原理主義」の説明も、納得したので引用する。

「どんな宗教でも、歴史の古いものならば、かならず原理主義的な運動が惹起する。宗教が社会に根をおろし、政治とからみながら民衆の生活に浸透していけば、必然的にスタート時の姿から変化を余儀なくされ、次第に本来のあり方とはずれた部分を含むようになる。それが許容の限度を越えたとき、「当初の原理原則に帰ろう」と、反省のゆさぶりが生じる。この運動はそれまでのリーダーたちの思想や信者たちの信仰とあいいれないケースも繁くあって、大きな争い、小さな争いとなってくり返される」

これは宗教のみならず、政治にもいえることだろう。
修正資本主義なんていうのもメッキがはがれてくると、「当初の原理原則に帰ろう」となるし。

 

じゃあなんで「イスムラ原理主義」=過激派みたいになってしまうのかというと、作者はイスラム圏が余りにも広がりすぎてしまったことと、時代の変遷もあるのではないかと述べている。確かにクエーカー教徒でもない限りは、21世紀の文明に浸って便宜なりなんなりの恩恵を蒙っているわけで、「当初の原理原則に帰ろう」と思うが、実際のところは、どーなのよってとこが本音だったりして。

 

コーランの日本語訳は決して魅力的な日本語ではないが、教えによってきわめて生き方を象徴的に示唆するものと、マニュアル的、行動規範的な具体的なものと整合性がなく、そのあたりがおもしろいと感じた。

 

コーランとその背景にあるイスラム的なもの、考え方など作者が丁寧に教示してくれているので、より深い理解へのヘルプとなる。

 

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美男VSブ男―花の色は 移りにけりな

 

 

『美男の立身、ブ男の逆襲』大塚ひかり著を読了。


この手の論考を書かせたら、西の横綱井上章一なら東の横綱大塚ひかりだ。
と、ぼくは個人的に思っている。
この本ではついに日本の古今のブ男と美男子について述べている。

 

弁証法ではないが、ブ男の時代と美男子の時代が、
変わりばんこにやってきている。

 

小ネタ的に古典的、日本史学的ウンチクがつまっていて、
なかなかいろんなことを考えさせられる。

 

武士が台頭するまではいわゆる公家文化で
のっぺりとした顔の男が持てはやされていたが、
武士の時代になると、筋骨たくましく、髭の濃い男が
持てはやされるようになった。

ひと昔前に流行ったしょうゆ顔、ソース顔の分類に似ている。

 

嫉妬深い菅原道真、実際は美男子ではなかった義経、ま、これは有名な話だけど。
空海がブ男とは知らなんだ。世阿弥が絶世の美男子っていうのは、なんとなくわかる。
巨根神話はホモ院政時代に勃興したという。

 

容貌の衰えというと、女性の専売特許のように思われるが、
どっこい、若い頃、イケメンでならした男は、なおさら老醜をさらすのが怖いと手厳しい。

 

五十代の光源氏って、そうか。あえて紫式部は長生きさせたんだな。
源氏物語」もろくに読んでないからな。

久世光彦演出でジュリー(沢田研二)が光源氏に扮した正月特番を
大昔、ちらと見たことがあるけど、きれいだった。
歌番組の特番かなんかで、ときたま、VTRで「勝手にしやがれ」だのソロになって
絶頂期のジュリーを放映するが、カッコええね。

そういう路線から降りた、降りざるをえなかったいまのジュリーも、
それはそれでステキだと思うのだが、やはり。

 

男女を問わず、美しさが光り輝いているのは一瞬か。
その美しさが戻ってこないことを、ほんとは知りながらも、
アンチエイジングだの、エステだの、美容整形だのと抵抗を試みる。

 

おまけ-1

若い頃の田村正和ってキムタクによく似ている。
じゃあキムタクが年取ると田村正和になるのかというと、それは早計というもの。
合掌、田村正和

 

おまけ-2

おわりの方に「色悪」という刺激的な言葉が出てきた。

色悪とは、「容貌は美しいのに、邪悪な心を持つという、見た目と内面が
相反する」男のこと。

肝機能の数値が高くて、ドス黒い顔をしているオヤジのことではない。

この「相反する」がポイント。ちょっと引用。

「なぜ虐待者は美男でなければならなかったのか」
「醜男や何の変哲もない男が女を殺すのではただの殺人だ」けれど、
「美男を加害者にすると、性だけではない性愛が浮き彫りにされて、
悲劇性も深まるからではないか」

「江戸中期」に、この役柄が生まれたそうだ。

人は見かけによるし、見かけによらない。

題名は忘れてしまったが、中上健次の短編に同じ「色悪」を主題にしたものがあって、
たいそう面白く読んだことがある。


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ビバ!メヒコ 堀口大學、メキシコへ

 

 

『悲劇週間―SEMANA TRAGICA』矢作俊彦著、読了。

 

『月下の一群』など、翻訳というよりも、原文である欧文を新しい日本語として書き換えた堀口大學。後の日本の作家に与えたインパクトを鑑みれば、それは新たなOSの考案者といってもオーバートークじゃないだろう。

 

その堀口のまぶしい青春記。といっても30歳ぐらいまでパパのスネかじり外遊をしていたらしいので、高等遊民であり、帰国子女、いまなら、外資の広告代理店にAEで入社できたかも。というのは失礼に値するか。

 

この本は、なんだかポール・ニザンの『アデン・アラビア』のパスティーシュのようでもあるが、そこは作者の腕で実にハードボイルドかつ読みでのある一級の娯楽作品に仕上げてある。背景がびっしり描きこまれた劇画のよう。

 

堀口大學の父・堀口九萬一は、新潟・長岡藩、賊軍の武士の子として生まれ、苦学しながらも生来の頭の良さで外交官となる。

 

堀口大學は盟友佐藤春夫とともに一高の試験に失敗し、慶応大学の予科に入る。やがて父の赴任先であるメキシコへ外遊する。途中ハワイで血を吐いてしばらく滞在するのだが、ハワイのシーンがなんともはやレイドバックしていて、うらやま。

 

時代的にはまだ明治維新、官軍、賊軍のしこりが癒えぬ時期、メキシコでも青年堀口は元会津藩の矍鑠たるサムライや現地の革命戦士、メヒコ・サムライなどと出会う。そして恋も。

 

メキシコ革命」をめぐり、大国アメリカの内政干渉親米派・嫌米派の対立などは、いまと変わらぬ図式。

 

この頃、日本は躍進目覚しくアジアの小国から欧米にキャッチアップしようと富国強兵・殖産興業とかでイケイケドンドン、自称アジアの大国になりつつあった。アジアの星として淡い期待を抱かれてもいたのだが、名誉白人と呼ばれたほうがよかったらしい。

 

読み終えてしばらくすると、そうか、反戦小説としても読めるんだなと。


メキシコのまぶしい光が伝わってきそう。

 

そうそう、ルイス・ブニュエルもスペイン内乱でフランコ政権に戦い、敗れて、アメリカ経由でメキシコに亡命した。岡本太郎もメキシコに魅了されたし。


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「エドガー・ポーを読む人は更にホフマンに遡らざるべからず」

 

 

『黄金の壺/マドモワゼル・ド・スキュデリ』E.T.A.ホフマン著 大島かおり訳を読む。

 

『黄金の壺』
いやはや、これはまばゆいばかりの幻想的な世界が行間からダダ漏れしている。大学生アンゼルムスくんは、接骨木(にわとこ)の木で「美しい三匹の金緑色の蛇」に出会い、
たちまち恋をする。そんなアンゼルムスに好意を抱いている大学副学長の美しい娘・ヴェローニカ。アンゼルムスくんは、蛇にも惹かれるが、ヴェローニカにも惹かれる。

この三角関係をこじらせているのが、「美しい金緑色の蛇」の父親である枢密文書管理官リントホルストとヴェローニカのばあやリーゼ。二人は長年の敵同士だった。達筆な字を書くリントホルストは事務官ヘールブラントの紹介でアンゼルムスのもとで筆耕のアルバイトをすることになる。
奇怪なアンゼルムスと不思議な彼の屋敷。「美しい三匹の金緑色の蛇」に出会えず焦燥気味のアンゼルムス。リントホルストは娘たちだと話して合わせてくれる。
自分の思いが通じないヴェローニカは「透視能力を持った」老婆に相談に行く。その老婆こそ彼女が小さい頃面倒をみたもらったリーザばあやだったとは。
魔法で決着をつけようとする火の精リントホルストとリーゼばあや。しかし彼女は破れて元の砂糖大根の姿に。

アンゼルムスくんは婿入りして「美しい金緑色の蛇」の一人ゼルパンティーナと荘園で暮らす。おいおい。彼女が抱えている黄金の壺。「壺からはみごとな百合の花が一輪」。めでたし、めでたし。絵本もいいいが、昔ながらの人形劇で見たい作品。


マドモワゼル・ド・スキュデリ』
頃はルイ14世が治めていたパリ。花開く貴族文化の一方で殺人、強盗など犯罪も絶えることはなかった。
金細工師カルディヤックは当代一の腕前と定評があり、注文は引く手あまた。偏屈な職人気質のせいか出来上がった宝飾品をなかなか渡さないこともあった。
そのカルディヤックの素晴らしい宝飾品を持っている貴族たちがたて続けに殺された。最後にはカルディヤックまでもが。むろん、宝飾品は略奪された。
容疑者として弟子のオリヴィエが逮捕される。その事件に立ち向かうのは詩人の「マドモワゼル・ド・スキュデリ」。彼女にはオリヴィエが真犯人とは思えなかったからだ。
捜査する彼女。明らかになる真実。カルディヤックには隠された恐ろしい一面があった。お、これは、ミステリーではないか。とりわけ彼の住む建物の描写などゴシック小説風味にあふれている。


訳者解説で「森鴎外が「エドガー・ポーを読む人は更にホフマンに遡らざるべからず」と。『玉を砕いて罪あり』という題名で」翻案しているそうだ。


本作品は『カルディヤック』として、パウルヒンデミットによりオペラ化されている。

 

『黄金の壺』が幻想小説のはじまりの一つとするなら、『マドモワゼル・ド・スキュデリ』はミステリーのはじまりの一つ。源流を辿るのも読書の醍醐味。


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人を喰ったようなタイトルのクールなゾンビ・ミステリ―

 

 

『わざわざゾンビを殺す人間なんていない。』小林泰三著を読む。

 

ゾンビというと、ジョージ・A・ロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』が浮かぶ。モノクロ画面で首を傾げ行進する不気味なゾンビの集団。

ヴードゥ教というと、アラン・パーカーの『エンゼル・ハート』かな。
映画を見たが、凄み、えぐみはあったが、腑に落ちず、原作、ウィリアム・ヒョーツバーグの『堕ちる天使』も読んだが、よくわからなかった。


遺体活性化現象が世界各地で起きていた。原因はゾンビウイルス。実態は「ウイルスよりもプリオンに近いもの」。ああBSE狂牛病)のプリオンね。活性化が起きるのは「新しい死体」で「復活すると」人間に「噛み付く。噛み付かれた人間が死亡すると新たな活性化遺体になる」。さらに噛み付かれなくてもゾンビが出没する地域では、ゾンビになるのだ。

 

「民間医療研究機関・アルティメットメディカル社の主幹研究員・葦土健介」が、社主催の研究発表も兼ねたパーティー当日、パーティー会場である同社「執行役員の有狩邸」の密室でゾンビになった。自殺か他殺か。葦土は有狩に撃たれる。

 

それを聞きつけた探偵・八つ頭瑠璃が頼まれもしないのに捜査に駆けつける。
なかなかのハードボイルドぶり。行動力もあるし、度胸もいい。

 

犬も歩けばゾンビに当たる。てな状態でいたるところに野良ゾンビ(収容所に収容されていないゾンビ)、家畜ゾンビ(収容所に収容されてるゾンビ)がいる。それに目をつけ見た目はゾンビと変わらないゾンビイーター(ゾンビ狩りをしてゾンビの肉を食す)も出る。

 

「活性化遺体活用法が制定」され、食用が法的に認められる。ブラックだけど。
リサイクル、リユースの一環か。モッタイナイ精神?

 

最も驚いたのは、パーシャルゾンビ。全ゾンビじゃなくて部分ゾンビ。
身体の器官など一部をゾンビ化することで不死身となるってことかな。
機械の体じゃなくてゾンビの体。いやあ著者の想像力には脱帽。
葦土の事件にもこのパーシャルゾンビが絡んでいる。
そして探偵・八つ頭瑠璃にも。彼女は姉の沙羅と肉体を一にした結合双生児だった。

これが表紙のイラストか。


作者のゾンビ蘊蓄も読ませる。たとえば、こんなところ。

「人々が死者の復活で連想したものはゾンビだった。これは近年のアメリカ映画の影響が大きい。ゾンビというのは、元々、ヴードゥ教というアフリカの民間信仰に登場する呪術で生き返った死体のことで、単なる奴隷として使役されるものであり、さほど危険なものではない。だが、アメリカ映画におけるゾンビは吸血鬼の要素が加味されており、ゾンビに噛み付かれたものもまたゾンビとなる。本来のゾンビの概念と区別するという意味で、このようなハリウッドタイプのゾンビを「活ける死体(リヴィングデッド)などの名称で呼ぶこともあるが、現代では多少の違いは気にせずに、ゾンビと呼ぶのが一般的になっている」

 

さて、この本。人を喰ったようなタイトルだが、ゾンビ・ミステリ―という作者ならではの世界がクールに展開する。

 

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ミス・マープルのデビュー作 13の短篇集

 

 

つらつらと読むアガサ・クリスティー短篇集。

『火曜クラブ』アガサ・クリスティー著 中村妙子訳を読む。

 

作者の作品ではエルキュール・ポアロと並んで人気のミス・マープルのデビュー作品。
甥のレイモンドや元警視総監や画家、女優など仕事も年齢も異なる人たちが
ミス・マープルの家に火曜日に集まる。
そこでは誰かが挙げた迷宮入りの事件や不思議な事件について
各自推理して真相や真犯人を探る。

 

何せ『火曜クラブ』のメンバーは自信や自慢の推理で他の者の鼻を明かしたいのだが、
決して出しゃばることなく理路整然と話して最後に持っていくのはミス・マープル

 

趣味が編み物と人間観察という彼女。
眼や耳に入る情報は真贋を仕分けして人物ファイルを脳内につくっているのだろう。
で、決して口外はしない。時と人によってはデスノート風だったりして(個人的感想)。
頭で推理する印象が強いが、意外にも行ける範囲は行って調査しているようだし。


今読むとオチが弱かったり、古かったりと思うかもしれないが、
きっちりと過不足なくいろいろなテイストの短篇に仕立てられている。

何篇かあらすじとか感想とかを。

 

『火曜クラブ』
まずは挨拶代わりに『火曜クラブ』の面々の人となりや経歴を。最初の話は夫婦ときれいな家政婦の3人が夕食にエビの缶詰の料理を取る。それが当たったようで妻が亡くなる。「プトマイン中毒」と診断され、埋葬された。しかし、殺人だった。真犯人と動機を当てたミス・マープルの見事な推理に感服。

 

『アスタルテの祠(ほこら)』
牧師の大学時代の友人リチャード・ヘイドがなかなか買い手のつかなかった屋敷を購入し、牧師らを招待した。屋敷からは「石器時代後期の遺跡」が見える。「石でできたあずまやのようなもの」を「アルテミスの祠」と命名した。仮装舞踏会を催した夜、リチャード・ヘイドが殺される。翌日、いとこのエリオット・ヘイドンも同じ場所で殺される。動機は男の嫉妬。ちょっとオカルテイックな作品。

 

『舗道の血痕』
コーンウォールの風変わりな小さな村テトール」。そこでスケッチに励んでいたジョイス・ランプリエール。写生に夢中になっていた、。気がつくと白い石畳の舗道に血痕を描いていた。実際「血がしたたっていた」。しばらくして彼女が現場を確認しに行くと血痕はなかった。その理由を解明するミス・マープル

 

『二人の老嬢』
ドクター・ロイドがカナリア諸島で遭遇した事件を話す。その地で見かけた二人のイギリス人の中年女性。翌日、浜辺に行くと大騒ぎ。海水浴に出かけた彼女たちが溺れて一人が亡くなった。ところがこの様を目撃していた人によると、一人の女性がもう一人をむりやり海に沈めていたとのこと。ドクターは後年オーストラリアでその女性と偶然再会する。再会したのは亡くなった女性の方だった。


13は不吉な数字といわれるが、あえて13篇にしたのは、意味があるやなしや。

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