作者が日本人にはなじみの薄い、というよりも名前は知っているけど、
中身に関してはほとんど知られていないコーランを噛み砕いて紹介している。
はじめに、こんなエピソードが出てくる。
「「昔、あるとき、敬虔なイスラム教徒と話をしていて、
「異教徒と結婚しちゃ、いけないの?」
と、尋ねれば、
「駄目です。ユダヤ教徒やキリスト教徒なら許されるけど」
「えっ?仲わるいじゃない」
―略―
「でもユダヤ教もキリスト教も同じ一神教ですから」」「「仏教徒は?」
「いけません。多神教だし……仏教は宗教じゃないのとちがいますか。あえて言えば哲学……。
人間が考えたことです。イスラム教は神が直接伝えたことですから」
「ユダヤ教も、キリスト教も、そうなんだ」
「はい。同じ一神教です」
同じ一神教なら、その神がみんなアラーだと考えることもできる。もともとユダヤ教やキリスト教と、
イスムラ教は関わりの深い宗教でもある」」
日本なんか八百万(やおよろず)の神がいて、鍋・釜にも神が宿ると信仰されているのに、そんなのはもってのほからしい。
イスラム教が偶像崇拝しないゆえに、バーミヤンの仏教遺跡を破壊した。
行為の是非はともかく、そういう教義なのだ。
じゃあなぜ、近しい関係にあるユダヤ教やキリスト教といまもなお揉めているのか。
「「イスラムの場合は、ほとんどが預言者のお話、しかも、そのあらかたが旧約聖書[ユダヤ教の聖典も同じ]の登場人物である」
「「旧約聖書を利用している」と言われても仕方のない情況なのだが、コーランの立場は“ユダヤ教[キリスト教も]を否定するものではなく、完成するものである”なのだ。ありていに言えば、ずーと昔から[時間を超え空間を超え]同じ唯一神の支配が続いているのであり、ユダヤ教とかキリスト教とか、いくつかのプレゼンテーションがあって神は預言者を何度も地上に送って警告を発し続けたが、いっこうに教えが実現しなかった。そこで最後にして絶対的な教えであるコーランを送り、同じく、最終にして絶対の預言者マホメットを遣わして今までの教えを完成するのだ、なのである」」
最終兵器ならぬ最終経典であり、最終預言者を有しているのがイスラムなのだと。
作者がいうように、やはりモスクでアラビア語で聴くコーランの響きに敬虔な美しさがあると想像するのは難くない。けど、ザルツブルグの教会か街の片隅から流れてきた賛美歌とて同じように心が洗われる美しさを同様に感じてしまえるのだが。宗教オンチのぼくには。頭に乗って書き続けるなら、義父・義母の葬儀のとき、近隣の人たちが集まってのご詠歌には、深く感じ入った。
「(コーランでは)利子を取ることについて絶対的な否定が示されている。が、資本を投入し、商売をやって利益をうるのは正当な商行為として認可されているのである」
なぜ(コーランでは)利子を否定しているのか。
「-貧しい人を救うには、どうしたらよいか-仕事を与えること、施しをおこなうこと、それも大切だが、根源的に金利というシステムが貧富の差を生んでいる。金貸し業で暴利を貪る者は(ユダヤ人ばかりでなく―ソネ註)アラブ人の中にもいた。これをなくさなければ本当の救済とはなるまい。」
しかし、ユダヤ人がなぜ金貸しなど「経済力」に秀でたのか。
それは
「ユダヤ人は一世紀の後半に、長年のすみかであったパレスチナ地方の祖国を追われ、
世界の各地に散った。国を持たない民族…。こういう運命を背負った民族はたいてい行った先々で融合され、混血などもあってオリジナリティを失ってしまうのだろうが、ユダヤ人はおのれの神を信じて独自性を保ち続けた」
「国家がなければ、自分で自分を守るよりほかにない。そのためには、お金が肝腎だ」と。
「アラーは鋭い。経済学の本質を見抜いていた。マルクスもびっくりするほど……。
金貸しと商行為のちがいは、後者には労働が必要であり、リスクをともなう」
と書いて作者もやはりこの問題の大きさに考えが止まってしまったようで、こう述べるのみ。
ここから先は経済学者や社会学者の出番なのかなあ。
「とにかく理念としてはコーランの掟を守ってお金がお金を生む弊害を軽減し、
貧富の差を小さくしようと、企てている」
ありがたい企てではないか。金貸しは正当な商行為ではない。とするならば、
はてさて、消費者金融会社はもとより銀行は、この教えをどのように受け止めるのだろう。
「イスムラ原理主義」の説明も、納得したので引用する。
「どんな宗教でも、歴史の古いものならば、かならず原理主義的な運動が惹起する。宗教が社会に根をおろし、政治とからみながら民衆の生活に浸透していけば、必然的にスタート時の姿から変化を余儀なくされ、次第に本来のあり方とはずれた部分を含むようになる。それが許容の限度を越えたとき、「当初の原理原則に帰ろう」と、反省のゆさぶりが生じる。この運動はそれまでのリーダーたちの思想や信者たちの信仰とあいいれないケースも繁くあって、大きな争い、小さな争いとなってくり返される」
これは宗教のみならず、政治にもいえることだろう。
修正資本主義なんていうのもメッキがはがれてくると、「当初の原理原則に帰ろう」となるし。
じゃあなんで「イスムラ原理主義」=過激派みたいになってしまうのかというと、作者はイスラム圏が余りにも広がりすぎてしまったことと、時代の変遷もあるのではないかと述べている。確かにクエーカー教徒でもない限りは、21世紀の文明に浸って便宜なりなんなりの恩恵を蒙っているわけで、「当初の原理原則に帰ろう」と思うが、実際のところは、どーなのよってとこが本音だったりして。
コーランの日本語訳は決して魅力的な日本語ではないが、教えによってきわめて生き方を象徴的に示唆するものと、マニュアル的、行動規範的な具体的なものと整合性がなく、そのあたりがおもしろいと感じた。
コーランとその背景にあるイスラム的なもの、考え方など作者が丁寧に教示してくれているので、より深い理解へのヘルプとなる。