戦前、戦中、戦後。東京には、住んでいる人の数だけ、物語がある

 

 

『東京百年物語3 一九四一~一九六七』ロバート・キャンベル編  十重田裕一編  宗像和重編を読む。

 

第二次世界大戦の敗戦が濃厚となった時代から焦土と化した東京。そして復興から高度経済成長期の東京を書いたもののアンソロジー。6篇を紹介。


『東京八景-苦難の或人に贈る-』太宰治著
中学時代、太宰の『人間失格』を読んで太宰病になった。しばらくぶりに読んでみると、やはり、すごく惹かれる。これは若ければイチコロだよな。東京で暮らした土地とそこでの思い出が書かれている。田舎の金持ちのわがまま坊ちゃんの自虐的半生記。いまでいう実家が太くて、末っ子ゆえ女との不祥事、薬物中毒、金欠なども家を継いだ兄がなんとかしてくれる。小説もぽつぽつ注文が来るようになり、人生の立て直しを図るのだが。というよりも取らぬ狸の皮算用的。「苦難の或人に贈る」という副題が、うまいというか、ふざけているというか。

 

『有楽町の思想』稲垣足穂著
足穂が戦時中、「自動車工場の徴用工」をしていた。意外。車窓からの有楽町や丸の内の風景描写が足穂っぽい。リアリズムでなくてどこかモダンで不思議な感じ。電車に揺られながら、小説の構想でも練っていたのだろうか。悲惨な空襲さえも著者にかかれば、幻想的に見える。


『飢えの季節』梅崎春生著
復員して看板広告に強い広告会社に就職した「私」。金があれば食い物は手に入るが、金はギリギリ。年中、空腹だった。毎日、東京郊外・稲田堤の農家の離れから会社のあるお茶の水まで2時間かけての通勤。外食食堂で飯を食っても満腹にはほど遠い。部屋を借りるとき、大家の農家の主人に賄いつきを希望したが、断られる。こっそり、農家から、せしめた芋で休日を過ごす。ほどよいユーモア。妄想するのは、「孤独のグルメ(美食家)」ならぬ「孤独のグルマン(大食漢)」。


『下町(ダウン・タウン)』林芙美子著
終戦後、夫はシベリアから一向に復員してこない。生活のため、りよは、幼子を引き連れて清水から上京、お茶の行商を始める。鉄材置き場で働く復員兵の鶴石と懇意に。休みの日、彼は、りよ親子を浅草に連れていく。夕方、雨が激しく降ってきた。子どもは背中で眠っている。雨宿りしようと旅館に。お互い、身の上話をする。その会話のさまがいい。成り行きで二人は…。後日、りよが鶴石の居候先を訪ねると、昨日、事故で亡くなっていた…。


『お守り』山川方夫著
団地は、かつて人々のあこがれだった。団地に抽選で当たるのは至難の業だった。運よく団地住まいとなった「ぼく」。夜更けに帰ると、男が前を歩いている。それが、瓜二つ。こともあろうに男は「ぼく」の部屋に入っていった。妻は気づいていなさそうだ。仕方なくドアを開けると、妻が悲鳴をあげる。先だって帰宅したのは誰?黒瀬と名乗った。男はD棟305号室。「ぼく」の住まいはE棟305号室。棟間違いだった。画一的な団地の生活に窮屈さを覚える。ぼくがぼくであるため、いわばセルフ・アイデンティティの「お守り」、それがなぜかダイナマイトだった。建築会社に勤める関口からもらったものだ。ラジオのニュースがバスの中でダイナマイト爆発の事故を伝えていた。持ち主は黒瀬だった。ショート・ショートの名手によるダークな劇画チックな作品。


『アジンコート』内田百間著
長野初は、著者にドイツ語を習いたいと人を介してきた。子どもの遺骨を抱いて台湾から帰ってきたと。そのとき、無人島のアジンコートが見えたと初めて会ったときに話す。日本女子大で英語を学んだ才媛で、しかも美人。勉強熱心でドイツ語は、めきめき上達。女弟子は話題となって噂になる。勘繰る友人も。ところが、関東大震災で亡くなってしまった。信じられなくて被服廠跡など下町のあちこちを捜すが、見つからず。その後、なぜか時折、彼女のことを思い出す。愛猫ノラが突然失踪して捜しまくる『ノラや』にならえば、『初や』になるが、そんな無粋なことはしない。

 

 

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 行きつけの図書館に秘密の地下室はありますか?

 

 

『図書館奇譚』村上春樹著を読む。

 

初期の作品『カンガルー日和』に収められた『図書館奇譚』を自らリメイク。 「ドイツの気鋭画家」カット・メンシックのイラストレーションが素晴らしい、アートブック4部作の1作。

 

「図書館はしんとしていた。本が音という音をすべて吸い取ってしまうのだ」
書き出しの一行から心をつかまれる。

 

おニューの靴を履いて、本を返却した「ぼく」。本を捜して地下室を案内される。そこにいた老人。本のコンシェルジュだった。「オスマン・トルコ帝国の収税政策」に関する本を捜していると伝える。見つけてくれた三冊の本は閲覧室で読むことに。


途中、小柄な羊男が現れて。 結局、「ぼく」は牢屋のような地下室に幽閉される。そこは、かつて井戸だったという。あ、『ねじまき鳥クロニクル』か。

 

一か月後に本の中身を覚えたら返してくれると。違った。羊男が言うには「知識の詰まった脳味噌」を「ちゅうちゅう吸われる」。羊男が去って独りぼっちの「ぼく」。美少女が夕食を持ってきた。

 

彼女も羊男も老人に管理されている。「明日の夜は新月、三人で逃げよう」と。新月の夜は老人の唯一眠る日。羊男に導かれ、逃げる「ぼく」。眠っている老人の元を通る。眠ってはいなかった。そばには、「大きな黒い犬」。


子どものとき、噛まれた犬に相違ない。犬は血まみれのむくどりをくわえていた。その犬の餌食になると。すると、むくどりがぐんぐん膨張。犬は、ちぎれてしまった。

 

「逃げるのよ」姿は見えないが、美少女の声がする。気がつくと朝になっていた。羊男と少女はどこへ…。

 

ぼくが通っている図書館に古今東西の全集を集めた一角がある。奥まったところでさまざまな全集が並んでいる。そこにテーブルと椅子が置いてある。マジで暮らしたいと思った。ふと、そんなことを思い出した。幽閉されて脳味噌ちゅーちゅーは、勘弁だけど。

 

フロイトは無意識を「個人の地下室」といっていたそうだが。

 

さて、「羊男」のイラスト、佐々木マキとカット・メンシック、どちらが好きかな?

 

カット・メンシックの羊男

佐々木マキの羊男

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なぜ、「自然主義」は「非社会的な文学」とみなされたのか。「文学運動」としての自然主義

 

 

『「蒲団」の時代 -自然主義とは何だったのか-』木村洋著を読む。

 

大学の講義のうろ覚え。エミール・ゾラなどに代表される本来の自然主義は、社会や人間を科学的(ふさわしい言葉が見つからん)に見つめ、リアリズムを重んじる文学。それが日本に輸入されると、ありのままを書くということが、個人の内面を赤裸々にさらけ出す文学になってしまった。その最たるものが私小説だと。

 

で、この本で、もう一度、そのあたりをおさらいしようと。


「自然主義は第一義において、国木田独歩や島崎藤村や田山花袋などの推し進めた文学運動だった。だが自然主義の意味はそれにとどまらない。―略―およそ1865年生まれを境とする「父と子」の戦いが、19世紀末の日本で始まった」

 

自然主義を「文学運動」と、いわゆる新世代の文学とするのが、斬新だった。

 

「1865年以前生まれの世代は、国家を抜きにして人生を考えられない精神の持ち主だった。他方、1865年以後生まれの世代は国家よりも文学や芸術に愛着を覚えるものたちだった」
「1865年以後生まれの「子」の世代は、それまで培ってきた物語や修辞や思弁を総動員するかたちで、数々の新しく物騒な表現や主張を打ち出した」

 

具体的に述べている箇所。

 

「厭世や性欲やツルゲーネフ『父と子』ばりの虚無主義などに彩られた主人公や表現を生み出すことで、硯友社*小説や流行小説に出てくるのとは違う人間像や見方を教えた。国家に身を捧げるのとは一線を画する個人主義的な生き方や「無理想、無解決」という破壊的な教護を考案した。告白という斬新な思想活動を広め、新聞や雑誌と力を合わせながら、文学者という異人を打ち立てもした」

 

「厭世や性欲、虚無主義」。国家的なものよりも個人を重んじる、「無理想、無解決」。「告白小説」が後に「私小説」と呼ばれるようになったと。

 

「逆に1865年以前生まれの世代、またはその価値観の守衛たる政府や保守派論客や教育家や新聞記者は、社会に害をなすものとして自然主義を攻撃した」

「1908年に出た小栗風葉『恋ざめ』に発禁処分がくだり、草野芝二訳『モリエエル全集中巻』、ゾラ著、飯田旗軒訳『巴里』後篇にも発禁処分は及んだ」。さらに伏字も。

 

作家たちはペンで抗議をしたとか。

「私(田山花袋)が『蒲団』を発表した当座、官僚は私の生活行動一切を監視」された。

 

私小説を偏狭な反社会的なものととられがちな従来の評価に対して著者は否!と述べている。だって社会に閉ざした私小説だとしても、結果、読み手に社会性や時代性を感じさせることはできるもの。

 

日露戦争後に、すでに、このような言論・出版弾圧があったとは…。しかし、自然主義という文学運動は、新たな作家と読者を発掘し、版元も成長、作家の地位も収入も向上した。

 

自然主義は、いい意味で見悪い意味でも、後の日本文学の母胎となったことを知る。


*硯友社…「文学結社。 1885年2月,大学予備門 (のちの第一高等学校) の学生尾崎紅葉,山田美妙,石橋思案と,高等商業学校の丸岡九華の4人で創立。同年5月機関誌『我楽多 (がらくた) 文庫』を発行,たちまち明治文壇の一大結社となった。有力な同人に,川上眉山,巌谷小波,江見水蔭,広津柳浪などがいたが,美妙の脱会 (1888) ,紅葉の名声により,次第に紅葉中心の結社に性格を変え,泉鏡花,小栗風葉,柳川春葉,徳田秋声らの新人が育った。近代写実主義と江戸戯作文学とを折衷し,明治後期に自然主義文学が台頭するまで,文壇の主流を形成していた」(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

 

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はらぺこいもむし

 

 


クチナシの枝をノコギリで切る。切りたくはないが、隣にまで少し浸出しはじめたから。過日、「虫がいる」と、隣からいわれた由。

 

先代の住人は、隣のオババから「花粉症だから花粉が飛んで困る」といわれ、マキの木を切ったそうだ。

 

木がありゃ、虫ぐらいいるだろ。クチナシの木の根本に正露丸のような大量のフン。

ドア先に枝が落ちてると思って、サンダルで蹴飛ばそうとしたら、サナギになりかけのオオスカシバのいも虫だった。黄緑色の体液がどろどろとひろがり、仕方なくトイレットペーパーをぐるぐる巻きにして拾った。「往生しなっせ」と片手で拝みながら。

 

オオスカシバはガなんだけど、ハチの擬態というのか、ハチもどきのカッコイイコケ脅かしのフォルムとその羽音がものすごくて、突然飛んでくると、クマンバチかと思ってビビッてしまう。


切ったクチナシの枝の葉は、おいしいとこだけ、あらかた食べられていた。子どもが大好きだった絵本、エリック・カールの『はらぺこあおむし』のように。大胆な色彩と素敵なシカケのある絵本。

 

カイコも桑の葉を猛烈に食べていた。沢山のカイコがわさわさと桑の葉を食べるシーンは圧巻だった。いっとき祖母の家でカイコを飼っていた。モスラは東京タワーにマユをつくってしまったが、


オオスカシバは、モスラにも少し似ている。

 

わが家の猫は、買ってきた新しいエサが気に食わなくて、
ゴキゲン斜めだ。

 

オオスカシバの成虫


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ありくい、シロアリの女王、ジャガー、「母親殺し」

 

 

『夏帆 The Tale of KAHO』村上春樹著を読む。発刊まもない作品を読むのって、すっごい久しぶり。

 

主人公の夏帆は、新進気鋭の絵本作家。父親は、浦和で小児科の開業医をしている。温和な性格で夏帆のよき相談相手。母親は、美形で活発な性格。父親が誉めるタイプなら、母親は真逆のタイプ。いまだ親しくなることができなかった。

 

冒頭、担当編集者から紹介された佐原と初デート。「醜い」と言われる。BNWのオートバイ乗りの男。

 

ありくいをキャラクターにした絵本が、ヒットする。なぜか、そのありくいが夢枕に立って「武蔵境へ引っ越せ」という。足立区内のマンションで一人暮らしをしていたが、土地勘のない武蔵境に引っ越すことに。


不動産業を営んでいる叔父(父親の弟)は、猛反対。かつて武蔵境で麻雀をしてボロ負けしたことがトラウマになっていて激しくディスる。

 

夏帆は運よく一軒家を借りることができた。武蔵境の一軒家のエピソードっで、なんとなく『ひらやすみ』っぽい。こちらは、阿佐ヶ谷が舞台だが。

 

床下からありくいが現れた。夫婦ではるばるブラジルからやってきて夏帆のマンションに棲みつき、ともに引っ越しして、武蔵境の家の床下に居を構えた。

 

彼女の描く絵物語とリンクして次々と不可思議なことが起きる。ありくいは夏帆に主食であるシリアリのオイル漬けを『とぎや』という店に取りに行ってほしいと。『とぎや』は、刃物砥ぎの知られざる名店だった。主人は、実は、体を何者かに乗っ取られていた。正体は、ありくいが恐れるジャガーだった。ジャガーも彼女の絵本に出て来る。

 

しばらくぶりに会った母親がなんだか若々しく妖艶になっていた。ファッションも派手に。それはシロアリの女王に乗っ取られていたから。シンクロ率もかなり高い。母親を殺さなければ、シロアリの女王と分離はできない。武蔵境の家まで招いたが、できなかった。

 

そのとき、妊娠していなければ、父親とは別れていたと打ち明けられる。

 

BNWのオートバイ乗りの佐原が再び会いたいと。で、正体を明かす。

 

父親から母親の具合が悪いと知らされる。検査しても数値的に悪い箇所は見当たらないのだが。夏帆は埼玉の実家へ…。シロアリの女王と母親の分離、長年のわだかまりを解消するために。

 

「父親殺し」というと、有名なフロイトのエディプスコンプレックス。息子が愛する母親を父親に取られたと思い殺意を抱く。著者のでは『海辺のカフカ』とかがそうだった。本作は「母親殺し」が大きなテーマのひとつ。「母親殺し」は、ユングが唱えた母娘の支配と依存の関係をあらわしたものだとか。母と娘の関係をテーマにしたのは、確かに初めてかもね。


だから謳い文句は「女性を主人公にした初の長篇小説」ではなくて「母娘関係をテーマにした初の長篇小説」じゃないかな。

 

守護天使やスカーレット・ヨハンソンという猫など、個性的なサブキャラもおなじみ。ファンタジーやホラーが隠し味。というよりもメルヘンに近いかも。現世と異界がひとつながりになるなど、ただただ楽しく読むことができた。

 

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グローバリズムは世界を帝国化していく試みだったが…

 

 

『帝国』といっても『スター・ウォーズ』じゃない。


『<帝国>グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』アントニオ・ネグリ マイケル・ハートの、ちょっと前話題になった本。

 

重たいんで、通勤本には向かず、少しずつ読んでいる。版元引用。

 

「本書の執筆は現在のイラク戦争の前哨戦である湾岸戦争とともに開始された。湾岸戦争が開始されたのは、ソビエト連邦の崩壊と時を同じくし、世界の二極構造が終焉した時でもある。そして2001年の「9.11同時多発テロ」に至るまでのこの10年間は、グローバリゼイションの嵐が吹きまくり、世界は急激な変化を遂げた。本書は、<帝国>というキーワードで、この世界的な変革を壮大なスケールで解き明かす試みであり、かつ21世紀の性格を予言する、貴重な文献である」

 

グローバリズムは世界を帝国化していく試みだったが、「ノー」を突き付ける人々が世界同時多発的に発生した。それが、反グローバリズム。引用。

 

「反グローバリズムとは、ヒト・モノ・カネが国境を越えて自由に動くグローバル化や、その背後にある市場優先のグローバリズムに批判的な立場や運動の総称です。(kotobank.jp)
「世界が一つの市場になるべきだ」という考え方に対して、「国や地域の主権や生活が壊される」「格差が広がる」といった問題意識から生まれた反発だと言えます。(kotobank.jp)」

 

フーコーの『性の歴史』についてもふれている。前期フーコーの理論は当然出て来ると思ったが、後期フーコーのイデアが出てくるとは。かいつまんでいうと、一見、前期と後期で矛盾してるように思われるかもしれないが、そんなことはないと。

 

「<人間の死>以後の人間主義とは」
「フーコーが『自己の自己に対する働きかけ』と呼ぶ、私たち自身と私たちの世界を創造し再創造しつつける、絶えまない構成的プロジェクトのことなのだ」

 

うまいこという。

もっとしびれるとこ。サイードの言説。

 

「東洋(オリエント)は創り出された、あるいは私の言葉でいえば、『東洋化された』のだということ」

 

国連についても冒頭でふれている。国連は第二次世界大戦の戦勝組が常任理事国となって現在に至る。金ヅルの日本はさらなる金ヅルとなって常任理事国入りをするのか。

富をつかんだ後は名誉がほしくなる。「名誉白人」とかいわれてうれしい人が、躍起になってるんだろうね。ぼくは永遠の二等国でいいんだけど。と、随分前に書いたが、もはや円安、すっかり安い国になった日本。


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人間を含めて生物は、体液の器なのか

 

 

『生類の思想 -体液をめぐって-』藤原辰史著を読む。

 

「人間」と「環境」を、新たに体液という観点から再検討する。そして「大気・海洋・土壌汚染、アレルギーの増加、免疫の不調、日常化する暴力、子どもの商品化、培養肉」など今日的な事柄をかっさばいていく。「生類」というと「生類憐みの令」を思い出すが。やはり、そこにもふれている。

 

まずは、「環境」という言葉の違和感について、こう述べている。

 

「「環境」という言葉に私がしっくりこないのは、「内界」が含まれないこと、人間「または」生物をとりまく世界をあらわそうとしていることに由来するのだろう。たとえば、動物の腸内は、そこに棲む微生物や食物残滓の状況をかんがみれば「環境」と呼んでなんらさしつかえないし、「環境破壊」は、人間「または」そのほかの生物へ影響を与えるのではなく、人間とそのほかの生きものとの違いをほとんど問わず、それらの生存条件もろとも破壊していくものである」

 

ユクスキュルの環世界を敷衍しているそうだが、「内界」とは、この場合、体内を指すのだろう。で、体内の水分が体液。


「体液」とは。

「女性の場合は体重の五割五分、男性の場合は六割を占めるといわれる体液は、あるときは血液として私たちの細胞に酸素や養分を運び、細胞から排出されたものを回収する。あるときは細胞の三分の二を占める細胞液として私たちに必須なものを貯蔵し、あるときは消化液として食行為を助ける。涙として目を洗浄することも、汗として体を冷やすこともある。老廃物とともに外に出させる尿という体液もある。羊水はそういった体液の一種にすぎない」
「体内の汁がたりなくなると、別の生きものの汁を摂取する。それを食事という。体内の汁は揮発すると水蒸気としてただよい空気とともに生類の体内に吸収される。それを呼吸という」

 

人間を含めて生物は、体液の器なのか。水分補給の重要さを改めて知る。

 

「本書をまとめるうえで、もっとも意識されているのは石牟礼道子であり、引用も少なくない」と。たとえば「石牟礼道子の羊水と海水をめぐる連想」など。

 

「体液は、海をめぐり、雲にのぼり、山に降り注ぎ、川を流れ、大気に溶け込み、数え切れぬ生類の体をつらぬく。三分の一の時間を犠牲にして生類と触れることをたえず無意識に選ばされてきた人間の歴史とは、微生物の棲み家であり、生類の条件である体液と、くんずほぐれつ、つきあってきた歴史である」(「体液をめぐる思想」)

自然(しぜん)ではなく、自然(じねん)と読むと納得できるかも。

 

「子どもの商品化」には、納得させられた。

「どうして」、学校教育は、傷のついていないピーマンや、真っ直ぐ段ボールに収めやすいキュウリや、ドロのついていない大根を、子どもの理想としてしまうのだろうか。傷のついているピーマンを味を確かめもせずに、捨てることを、教育者はやっていないだろうか」(「子どもの商品化に抗する思想」)

金子みすずの「みんな違って、みんないい」から、ほど遠い現状。

 

「社会の中で一見公開されているように見える食べ物は、栄養を体内に取り込むというよりは、生き物の死骸を、唾液を噴出させて、食い破ることである。繰り返すが、生まれてから亡くなるまでのしばらくのあいだ、ヒトに差異はあるとはいえ、私たちの体内のものは漏れ始める。そこにこそ、ケアが生まれる。ケアとは漏れを社会から隠しつつ、漏れていることが人間の本質であり、実は例外ではないのだと、そっとその人をいたわることである」(「おわりに」)

 

この箇所が、まだ、よく理解できない。老いると漏らす。糞尿か。記憶が漏れることは、ボケなのだろうか。


宮沢賢治から石牟礼道子への思想の流れは意外だった。『苦海浄土』あたりから読み始めようか。

 

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