即戦力の即は、即席の即

 

 

教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』竹内 洋著を読む。


教養は、たぶん、即効性がない。ところが、最近の教育は即効性を求める。大学がまるでビジネススクールのようになったのも、社会が学生に即戦力を求めるからだということになっている。しかし、即戦力の即は、即席の即、すなわちインスタントである。
企業がかつてのように若い人材を育成する余裕がなくなってしまい、スキル的にすぐ使える人を雇いたがる。

 

しかし、それじゃ、企業自体が脆弱化していく。すぐに役に立たない。というよりも、すぐに役に立つものは教養とはいえない。じゃあ、知識は。どうもこの知識も机上のものと思われ、経験と比べれば旗色が良くない今日この頃。どっちがどうと比較できないと考える者である。


本で得た知識と現場でたたき上げた経験知からの知識、刑事ドラマならこの対立図式は面白いのだが、ケースバイケースってとこ。知識と体験の根底にあるものが、教養だと考える。だって、根っこの部分が形成されていないと、知識も体験も、実にならない。
できれば、教養は小さいうちに叩き込みたい。「門前の小僧、習わぬ経を詠み」でいい。

 

ぼくが教養と聞いてイメージするのは、ヨーロッパ各国におけるラテン語の履修なのだが。あるいは「知を愛する」が本来の意味である哲学だとか。「何のためにやるの」と子どもにたずねられて、明確に返答できないくらいのものがいい。

 

悪評噴飯だった「ゆとりの教育」も-あれは生徒ではなく先生のゆとりのためという説もあるが-「教養の教育」とか銘打てば、反論も少なかったりして。なんでもかんでも悪い意味でのプラグマチックになってしまっている。学習塾は、進学のために受験テクニックを授ける場だけど、学校は違うだろ。少なくとも、公立学校は。

 

教養がないというと、またぞろ戦前の旧制中学や旧制高校を持ち出してきて「ノーブレス・オブリージェ」などエリート教育の必要性を訴えるというのも、一利あるかもしれないが、このあたりは今後の宿題ということで。


教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』竹内 洋 (著)が、参考になるかも。
ただ作者の「昔はよかった」的スタイルが、いまに通じるかどうかは疑問。

 

「夢を見る。??これこそが、教養の力なのだ」と、web草思でのエッセイ(リンク切れ)で保坂は結んでいるが、このくだりがぼくにはイマイチ理解できない。

 

一時期、お題目のように出てきた「生きる力」、これこそ「教養」とイコールで結べないだろうか。


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