ゾンビのように甦るリバータリアニズム

 

 

『リバータリアニズム入門―現代アメリカの「民衆の保守思想」』デイヴィッド・ボウツ著を読む。

 

まず、二ヵ所引用してみる。

 

a.「今日、有権者の怒りの感情を代弁する思想は、これまでのような過激共和主義でもなければ、保守主義でもない。それは、リバータリアニズムである。人々の連邦主義と公務員に対する軽蔑と不満の念は次第に強まり、ますます多くのアメリカ人が、しばしば無意識のうちに、リバータリアン思想のほうへ向いつつある」(経済紙『ウォールストリート・ジャーナル』)

 

b.「なぜ、今頃リバータリアンの復活なのか。最大の理由は、リバータリアニズムに代わるべきもの、つまり、ファシズム共産主義社会主義、そして福祉国家優先主義などことごとくが二〇世紀に実験され、その結果、それらのイデオロギーが人類の平和や繁栄、自由を生み出すことにことごとく失敗したからである」

 

引用b.は、おいおいそうなのかと鵜呑みにはできない。「ことごとく失敗」というのは何も二〇世紀に限られたことじゃないのではないだろか。若い思想が失敗したゆえ、オールド思想が復活っていうんじゃねえ。「無意識のうちに、リバータリアン思想のほうへ向いつつある」の指摘はうなづけるのだが。なら無党派層とはどうカブるのだろう。

 

作者がいうには「ジェファーソンの起草したアメリカ独立宣言がリバータリアニズム」の原典だとか。

 

第十章「時代にそぐわない国家」からの引用と感想。

 

引用部分はすべてアメリカの現象なのだが、見事なまでに日本の現状とオーバーラップする。

 

「公共サービスの質がますます低下し、情報化時代のなかで市場がますます洗練されていくにつれて、人々はあらゆるものが民間によって提供されることを求め始めた。それには、教育や宅急便から災害保険までが含まれる。かつては、政府がそのようなサービスを独占する必要性を認めていた人々でさえ、今では、政府というのは、ほとんどの商品やサービスを供給するうえで、ますます気の利かない、時代遅れの方法になってきていると考えている」

 

ぼくの父親はかつて公務員で、一般企業は利潤の追求がミッションだが、公務員は国民への奉仕がそのレゾンデートルだ的なことをブレイクダウンして小学生のぼくにいったことをふと、思い出した。国民の奉仕のわりには俗にいうお役所仕事だの、親方日の丸だといわれて今日に至る。

 

「多くの家庭は、今や組織硬直化した学校教育全般をあきらめ、子どもたちを家庭内で教育し始めている。自宅教育を選択した理由はさまざまである」

 

「組織硬直化した学校教育全般をあきらめ」た日本の特に都市部の富裕層(でなくてもか)は、自宅教育の代替として子どもを私立校に通わせる。

 

「人々は、-略-犯罪や、多くの大都市で起こっている公共サービスの大幅な低下から自分たちを守るために」「塀で囲まれた」「共同私有地」「で生活することを選択している」

 

いうなれば、逆アパルトヘイト。ただし、高い塀で四方を囲んだ邸宅の方が、盗難などに遭いやすいとか。内部は隠蔽されているが、いったん、不法侵入者が入ってしまえば外部からはわからないからだそうだ。また、「共同私有地」内での犯罪には、防ぎようがないんじゃなかろうか。

 

「政府保険は、これまでに多くの不幸な結果をもたらしてきた。-略-政府はリスクに対して適正な保険料を徴収するのが下手だ」


ゆえに、リスク分散のための各種保険や株式運用は、マーケットに、個人に戻すべきだと。とはいうものの401Kで投資先を間違えて株券が紙くずになって、セカンドライフの資金がなくなってしまった人とか出てこないのだろうか。

TVで「年金制度は信用できないので、その分、自分で個人年金に入っています」と胸張って答えている人がいたけど、そういうことなのか。あらら、揺らいでいる日本の年金制度は、どうなるのだろう。

 

リバータリアンは「主権在民」を今日にリメイクしたようなものだと思う。まあ、いまだに人間より銃のほうに信頼感を抱いてるような、つーか、定められている法に不服だと、西部劇の時代に逆戻って私刑だ!高く吊るせ!なんて言いかねない民族と滅私奉公、貯蓄・勤勉が最近まで根強く残っていて、政府や公共機関をお上と呼んで絶対視していた(る)われわれとでは違うけども。

 

肯定と否定が入り混じったままなんだけど、しばらく、梅干のタネのようにモゴモゴしていく。

 

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