近代の日本人の「精神の歴史」を読み解く

 

 

『日本精神史  近代篇上』 長谷川 宏著を読む。迂闊にも『日本精神史』という前著があったことを知らずに読み出した。

 

在野の哲学者として知られる著者が歴史、しかも近代の日本人の「精神の歴史」を書くとは。どのようなものかと読み進む。


「はじめに」から引用。

「さて、江戸の終わりから明治の初めにかけて日本の歴史は大きな転換期を迎える。それまではやや遠くに眺めやられていた西洋の文明が、すさまじい勢いでこの極東の島国に流れこみ、日本はまたたくまに「近代」の名で呼ばれる時代に突入する」


その昔、網野善彦の『日本の社会の歴史』(岩波新書) 上中下巻を読んだが、下巻の近代になると急にそれまでの魅力が薄れてしまったことを思いだした。

 

「探求の手法は、『日本精神史』(上・下)を引き継いでいく。すなわち、日本近代の美術と思想と文学の三領域にわたる文物や文献を手がかりに、そこに陰に陽に示された精神のありさまをことばにするというやりかただ」


以下、つらつらと。

〇近代洋画の先駆者、高橋由一の作品「豆腐」や「鮭」を見ると、スーパーリアリズムの絵画に見える。「絵というものは精神のなす仕事なのだ」というのは名言。

 

〇大ベストセラーとなった『学問のすすめ』の著者、福沢諭吉。「その啓蒙思想は時流に乗ってあからさまに富国強兵策・対外強硬策を推奨するものへと変質していった」。
その理由を「個としての人間一人一人を、独自の思考と感情をもつゆたかな主体的存在としてとらええない人間観の貧しさにあると思う」と手厳しい。

 

坪内逍遥二葉亭四迷が「リアリズム(写実主義)の名で呼ばれる西洋近代小説」をいかに日本文学に定着させるか。いわば産みの苦しみを知る。言文一致。二葉亭四迷三遊亭円朝の語りを参考にしたのだが。小説よりもツルゲーネフの翻訳の文体がきわめて魅力的。村上春樹がデビュー作『風の歌を聴け』で、一部英文で書き、それを翻訳したそうだが。西洋式の恋愛を掌握するのは漱石や鴎外の出現を待たなければならない。日本語のロックや日本語のラップから考えると似た図式で興味深い。

 

〇「第七章 韓国併合大逆事件」では、権力の凄まじい蛮勇ぶりに唖然とした。大逆事件で死刑となった幸徳秋水たち。結果的に生き残った堺利彦。もはや「反体制運動」どころではなかった。「堺にとって明るさを失わないようで生きることが人間的に反体制を生きることだった」この一文が滲みる。

 

〇「第八章 民族への視線、民芸への視線」では柳田国男柳宗悦を取り上げている。
「国家の主導した戦争によってもっとも大きな痛手を蒙ったのが村の人びと、家の人びとだったことからしても、地方の村や家に依拠する民俗学は、村や家の共同性と国家支配の共同性との切断と不連続をこそなにより問題とすべきだった思われるのだ」
「(柳の)民芸への愛と敬意が人びとの日常の暮しへの愛と敬意にしっかりと結びついた思索と実践は、個をつらぬいて生きるのが困難な時代に類稀な思想の強さを発揮したのだった」

 

「美術と思想と文学」を串刺しにして人びとの「精神のありさま」をあぶりだすという方法は新しく、知らなかったこと、改めて知らされたことなど、まさに、目からウロコ状態。

 

上からではなく市井の人の視線から近代を見つめる。雑誌『思想の科学』の後継といっても言い過ぎではないだろう。

 

高橋由一「豆腐」「鮭」

 

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