ホモ・エコノミクスについて考える

 

ホモ・エコノミクス-「利己的人間」の思想史-』重田園江著を読む。


ホモなんちゃらというと、「ホモ・ルーデンス」byホイジンガ、遊ぶ人の意。「ホモ・ファーベル」byベルクソン、作る人の意。などがある。「ホモ・エコノミクス」を作者は、かように定義づけている。

 

「「合理的経済人」とも呼ばれ、広い意味では「自分の経済的・金銭的な利益や利得を第一に考えて行動する人」を意味している」

どんな本なのか。こう述べている。

「本書は、自己利益の主体が標準的人間像であることが当たり前になり、自由市場の擁護かそれ以外かという対立軸しかなくなっているような現代から、過去をふり返る試みだ」

「金儲けと道徳」という立場から、違うな、当時のキリスト教的な道徳から見ると金儲けは悪しきこととされていた。

「近代以前のヨーロッパでは、エゴイズム、とりわけ富や財産に関わる利益を追求するエゴイズムは蔑みの対象だった」


戦前の日本でも、金のことに固執するのは下品なこととされていたのではないだろうか。

 

ゆえにキリスト教徒の金貸しはご法度になって「変わって、「ユダヤ人の金貸し」が現われる」『ベニスの商人』に出て来る高利貸しシャイロックのように忌み嫌われていた。高利と知っていて借りた方が悪いのにね。

 

で、教会は「15世紀、「モンテ・ディ・ピエタ」と呼ばれる公的な金貸し(質屋)」を支援した。でも借りるわけだから、利子も取られる。支払いが遅れるなら、とりたてもされる。「奨学金」という名前の学生ローンとなんとなく似ている。

 

「ヒュームやスミスは、国王権力に守られた許諾制の貿易や特許会社の存在を公平性に欠けると考えていた。彼らは一部の特権層のみに閉じられた商業と産業のあり方を糾弾し、誰もが経済活動に参入できる開かれた市場と、経済的自立に裏打ちされた市民による社会を構想した」

それが現代になると「金儲け」、「富の追求」は、当然のこととなった。
いつの間にか、ぼくたちが、そういうふうに刷り込まれているのはなぜだろう。
かつて日本人がエコノミック・アニマルと呼ばれていたが。

 

先だっての岸田首相の「貯蓄から投資へ」の提示なんて、まさに一億総「ホモ・エコノミクス」化だよね。なんか違和感を感じていたが、この本を読んでその理由が少しだけわかった気がする。

 

人気blogランキング