人はなぜ歩くのか?みーんな歩いて大きくなった

ウォークス 歩くことの精神史

『ウォークス-歩くことの精神史-』レベッカ・ソルニット著 東辻賢治郎訳を読む。

 

人間は歩く、すなわち二足歩行することで脳が発達して、知的にも進化した。また、歩くことはストレスを発散して、脳を活性化する効果があるとも。

 

作者は歩くことをさまざまな視点から読み解いている。その切り口が多彩かつ鋭くて、でもって楽しい。

 

古代ギリシアの哲学者アリストテレスのグループは、「逍遥学派」といわれた。カントの散歩は毎日、決まった時間の行われ、街の人は時計代わりにしていたとか。ルソーはブローニュの森を散歩しながら『人間不平等起源論』の論考を練った。実存哲学の祖の一人・キェルケゴールコペンハーゲンの街を歩いた。著者によるとルソーは陽キャキェルケゴール陰キャ。よくわかる。日本だと西田幾多郎が歩きながら思索したといわれる京都・哲学の道

 

人間の移動手段が当初の歩くから馬などの動物を利用。さらに産業革命以降機関車や自動車などがメインになると、歩くことは、反物質文明、反近代化の象徴になったと。

 

感じ入ったところをランダムに引用。

 

「書物のような歩行があるとすれば、歩くことに似た書物もある。それは歩行による「読解」を世界の描写に利用するということだ。もっとも名高いのは、ヴェルギリウスの導かれてダンテが死後の三界を遍歴していく『神曲』だろう。いわば彼岸の旅行譚であるこの物語は、旅のペースを乱すことなくさまざまな光景や登場人物を通りすぎてゆく」

 

書物の読解はわかるが、歩くことでの読解。発見や気づきということなのか。

 

「街歩きと田舎歩き。―略―田舎歩きは自然への愛という道義的な務めを見出したことで、野山を護りながら人びとに開放してゆくことにつながっていった。街歩きはつねに後ろ暗さを引きずっていて、いとも簡単にナンパや。ポン引きや、練り歩き、ショッピング、暴動、抗議行動、忍び歩き、浮浪といった行為に横滑りしてゆく。―略―モラルの高さという意味では自然愛に比べるべきもない。―略―けれども、いろいろな意味で原初的な狩猟採集に似通っているのは田舎歩きよりもむしろ街歩きである」

 

街でふだん歩かない道を行く。通学路を変えて登校する子どものように。きれいな自然の田舎と猥雑な街、ま、好みになってしまうのだが。

「パリの住人は、公園や街路を広間や廊下のように使って暮らしている。―略―家々も教会も橋も壁もすべてが砂のような灰色をしたこの街は、想像を超えた複雑性を備えた一個の構築物のようにもみえる。あるいはハイ・カルチャーの珊瑚礁のようにも、そのすべてがパリを多孔質にする。」

 

ぱっと浮かんだのは、佐伯祐三のパリの風景画。

 

「「あるときは風景、あるときは部屋」。ヴァルター・ベンヤミンはパリを歩く経験をそう書いた。多くの者を懐に捉えてきたパリは、都市と都市を歩く術について類い稀な考察者であるベンヤミンもまたその深みに惹き入れた」

 

ベンヤミンの未完に終わった『パサージュ論』。

 

歩くことに関係はしていないが、住宅の役割の引用は、そうかと。

 

「建築史家マーク・ウィンギンスは次のように書いている。「ギリシアの思想では、男性が自らの男性性の徴とする内的な時制能力が、女性には備わっていないとされた。―略―建築の役割は―略―女性のセクシャリティ、少女の純潔、既婚女性の貞節をあからさまにコントロールすることなのである。住宅は子どもたちを周囲の環境から保護するものだが、その主要な役割は女性をほかの男性から隔離し、遺伝上の父の権限を護ることにある」」

 

「奥さん」や「家内」という呼称。日本でも同様に。

 

この話もついでに。

 

ジムでおなじみのトレッド・ミル(ランニングマシン)。そもそもは19世紀イギリスの刑務所で設置された。「囚人の精神の矯正」及び「穀物の製粉などの動力」に使われたそうな。囚人たちがやらされていたトレッド・ミル。現在は、スポーツジムで体力増強やダイエットなどフィットネスのために使われている。


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