谷崎リスペクト、川端リスペクト

谷崎潤一郎・川端康成 (中公文庫)

 

谷崎潤一郎川端康成三島由紀夫著を読む。

 

川端康成異相短篇集』川端康成著 高原英理編を読んでいたら、文庫本のカバーのそでにこの本が載っていた。えっ!三島が谷崎と川端について書いた評論集。

 

ここ数年、虫食い状態で谷崎と川端を読んでいた。つっても、メインではなくマニアックな短篇だが。それと三島作品って小説はわずかに読んだ程度で評論は未読。なんか期待できる気がして読み出したら、当たり!大当たり!だった。

 

谷崎文学について

 

「実は、谷崎氏ほどニヒリストになる条件を完全にそなえた作家は珍しかった。―略―おそらく谷崎氏の生き方には、私の独断だが、芥川龍之介の自殺が逆の影響を与えているように思われる。―略―谷崎氏は、芥川の敗北を見て、持ち前のマゾヒストの自信を以て、「俺ならもっとずっとずっとうまく敗北して、そうして永生きしてやる」と呟いたにちがいない」

 

己の姿を見極めることができて、状況に応じて対処できる、どこか醒めている。

 

「日本人の莫迦正直が、西欧の自然主義リアリズムを過度に信奉して、ついには小説の「まことらしさ」を、「一定の現実に生起した事実のもたらす主観的信憑性」という窄(せま)い檻に押し込めてしまった。―略―谷崎氏はこれを打破したのである。これを打破するのに、氏は四つの強力な武器を持っていた。すなわち、観念、官能、写実、文章の四つである」

 

日本の自然主義文学の鬼子が私小説だが、小説本来の豊饒さ、ストーリーテリングの面白さで圧倒したのが谷崎文学か。

 

川端文学について

 

ニーチェのワグナー評を引用してこう述べている。

 

「「彼は実に微小なものの巨匠なのだ」」

 

と。さらに、

 

「川端文学には他にもワグナーを思わせる特色がいろいろある。死と性愛のおそろしい合致をえがいた「眠れる美女」などには、ワグナー的あいまいさと、地の底へ引きずりこむような魅力があり、しかもそれがワグナー的厖大さの代わりに「微小なものの巨匠」の節度で引き締められているのである」

 

数ある掌小説とか。精巧な寄木細工の体(てい)。

 

「氏のエロティシズムは、氏自身の官能の発露というよりは、官能の本体つまり生命に対する、永遠に論理的を辿らぬ、不断の接触、あるいは接触の試みと云ったほうが近い。それが真の意味でエロティックなのは、対象すなわち生命が、永遠に触れられないというメカニズムにあり、氏が好んで処女を描くのは、処女にとどまる限り永遠に不可触であるが、犯されたときはすでに処女ではない。という処女独特のメカニズムに対する興味だと思われる」

 

谷崎文学は悪魔文学などと称されたらしいが、ニーチェに倣えば、川端文学の方がディオニソス的で、谷崎文学はアポロン的といえる気がする。


三島と川端の親密な交友(師弟の間柄)は知っていたが、谷崎の人となりについても書いてある。

 

「(谷崎)氏はうるさいことが大きらいで、青くさい田舎者の理論家などは寄せつけなかった。―略―それなら氏が人当たりの悪い倣岸な人とかいうと、―略―終生、下町風の腰の低さを持っていた人であった。―略―氏は大芸術家であるとともに大生活人であり、芸術家としての矜持を護るために、あらゆる腰の低さと、あらゆる冷血の
印象を怖れない人だったからだ」

 

川端と言うと、あのぎょろりとした目が特徴的だが、そして寡黙の人だったと。沈黙は気にならず、新人の女性編集者が、半時間黙ったままなので何か粗相をしたかと思って泣き出したというエピソードがあるほど。寡黙なのに、なぜか面倒見がよいのか、自宅には来訪者が多かったり、宴会にもまめに顔を出したり、いろんな名誉役職に就いたりとか。でも、寡黙さは変わらずと。


おまけ。
大谷崎」は、「おおたにざき」と読むべし。


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