待ち時間に『世界を肯定する哲学』保坂和志を読む。
一人ジェイムス兄弟とでもいえばいいのか。プラグマティズム(実用主義)の代表者の一人である哲学者ウィリアム・ジェームスと作家ヘンリー・ジェイムスの兄弟。兄が「小説のような哲学」者なら、弟は「哲学のような小説」家といわれていた。
一箇所、引用。
「書物とインターネットには本質的な違いがある。書物は「通して読む」もので、
インターネットは「検索」してから「引用」するものだ。-一部略-そもそもネット上の文章は、クリックしてあちこち飛ぶことを前提として書かれている。そのとき文章は“情報”として透明になる。それに対して書物は“情報”ではなくて“精神”だ。」
哲学者黒崎政男は、『デジタルを哲学する 時代のテンポに翻弄される<私>』 の中で、
「重要なのはあるメディアが有する質料的特質に即した情報(ソフト)の追求である」と述べている。
アリストテレスだっけ。
「形相(イデア=物事の本質)」と「質料(ものごとを形作っている材料)」に
分けて考えたのは。
書物が精神というのは、なんか、くすぐったい気もしないではないし、屁理屈かもしれないが、書き手に誘惑されなければ、通して読むことはできない。ただ作者にとっての書物とはそういうものなんだろうね。そういうものじゃないと書物とは認められないってことか。
情報が摂取されて精神に変化するってこともあるし。
自我とか私とか、ばっかいってんじゃないよ。有為自然ってことなのか。
待ち時間、終了。