フーコー虎の巻

 

フーコーの風向き: 近代国家の系譜学

フーコーの風向き: 近代国家の系譜学

 

 

フーコーの風向き 近代国家の系譜学』重田園江著を読む。

フーコーはいつも、風向きを計るのがうまい思想家だった。時代の風向き、とりわけその変わり目と未来の方向性を」

フーコーの思想が古びないのはそういうことなのか。フーコーの風向、風見鶏。あ、いい意味で。いわゆる変節の人というのか、過去のスタイルを壊しては新たなスタイルに取り組む人かと。著作は一部しか読んでいないが、初期と中・後期では内容が随分違っているように思える。だが、作者はこう述べている。

 

フーコーの思想は、研究の主題や対象を大きく変えるたびに断絶しているように見えるが、実はこの点で彼の関心および方法には当初から一貫性がある。知と権力はずっとフーコーの主要テーマなのである」

 

「知と権力」。これでつながる。もやもやが少し晴れる。


フーコーの「権力」研究について、私はこれまで次のような見取り図で考えてきた。『狂気の歴史』から『監獄の誕生』にいたる一連の研究の中で、フーコーは徐々に近代権力の「実践(相互行為)の側面を意識するようになる。そして『監獄の誕生』において近代権力の一タイプとして「規律権力」を見出し、また『知への意志』では抑圧の仮説を批判し、権力の生産性と「生きさせる権力=生権力」を定式化するにいたった。同時に『知への意志』ですでに、規律権力とは別タイプの権力として、生政治の存在をほのめかしていた。そして、規律権力と生政治の二種類の権力が、1978年以降、統治という概念の内部に位置づけ直されることになる」」

 

「規律権力」の代表的なものは監獄だが、それ以外に「寄宿制の私立学校、軍隊や兵営、大規模工場、軍病院をはじめとする各種の病院などである」同じ「権力メカニズム」だと。

 

「生政治とは、生(生活/生命)に関わる事柄、生きること、生まれること、死ぬこと、生活することのすべてが、政治の対象となり、生全体が「政治化」してゆくことを指している」

 

「揺りかごから墓場まで」こっそり政治介入。具体的に作者はこう述べている。

 

「健康で衛生的な生活を送ることは、個人にとって幸福であると同時に、公衆衛生や都市の秩序形成に役立ち、また国家の経済的生産性を高めることにも寄与する。そしてこれが単にイデオロギーとして唱えられるのではなく、公衆衛生のための医療の展開や都市計画の徹底など、さまざまな装置を用いた身体の働きかけを伴うことで、個人と国家の健康管理を実現してゆく」

 

「健康で衛生的な生活を送ることは」医療費の抑制にもつながるし。毎日、走っている人は知らず知らず国家の思うつぼになっている。


「統治の問題を取り上げたフーコーの関心は規律に代わる新たな人間管理の技法にあった。それを把握するために、フーコーは欲望と市場の「発見」が政治の言語に与えたインパクトを語彙と文法に着目して考察する、コンテクスト主義の政治思想史との間に接点を持つことになる」

 

「新たな人間管理の技法」。管理の見えない化ってこと。たとえば「働き方改革」も、労働者のためというが。


「1970年代以降の新自由主義の台頭は、統治性研究のモティーフときわめて深く関わっている。フーコーは、社会主義国家・福祉国家の行きづまりのあとに、再び自由主義がそれらの有力なオルタナティブとして登場してきたのはなぜかについて思考しようとしていた。彼は20世紀後半の世界に固有の状況、むしろフーコーの死後さらに顕在化する、ポスト福祉国家型の秩序が模索される時代状況を見すえつつ、新自由主義の秩序構想の系譜をさかのぼろうとしたといえる。さらに、福祉国家の行きづまりを乗り越えようとする二つの勢力である、新自由主義とポスト福祉国家型の社会民主主義が共有する基盤についても、ある見方を示そうとしていた」

 

コロナ禍の現状や分断国家など、もしフーコーが存命だったら、どう提言するのだろうか。聞いてみたい。

 

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