ユートピアは砂糖菓子のように脆い

 

 


『チェヴェングール』アンドレイ・プラトーノフ著 工藤順訳 石井優貴訳をようやっと読む。

 

ロシア文学というと、長い、登場人物が多い。「父称、あだ名」と本名があってややこしい。誰が誰だか途中で混乱する。だから、登場人物紹介ページをコピーしてしおり、代わりにして読んでいる。


アレクサンドル・ドヴァーノフ(サーシャ)は、友人のコピョンキンと理想の共産主義都市といわれるチェヴェングールへ行く。ところが…。

 

と書くと、またもやディストピアものかと早合点する。

 

帝政ロシアから世界初の共産主義国家であるソビエト連邦が樹立された頃に書かれた。
チェヴェングールには、作者の理想や願望が込められているのか。

 

理想郷のはずなのに違和感がある。2か所会話を引用。

 

プロコーフィ(サーシャの義弟)の会話。
「おれらはこんなに良い暮らしをしてんのに、なぜ不満を感じる?―略―なんでかって、真実ってもんはみな、ほんの少しだけ、それも最後の最後にようやく分かるもんだからだ。なのに、おれらは真実、つまり共産主義を丸ごと、いま建てちまったばっかりに、その真実のせいでどうにも快適にならねェってわけだ!ここじゃ全部が上手いこといってて、ブルジョワもいなくて、連帯と公正に囲まれてるってのに、なぜプロレタリアアートは虚しさを感じる?なぜ結婚なんかしたがる?」


ドヴァーノフ(サーシャ)の会話。
ブルジョワジーが終わって、共産主義共産主義から生じて、共産主義者たちのあいだに根づいている。共産主義をどこかで探す必要なんてあるのかい?同志コピョンキン?自分の中に大切にしまってあるのにさ。チェヴェングールには共産主義を阻むものは
何もないから、自分で勝手に生まれるんだ」

 

ユートピアであるチェヴェングールは、最後には武装集団によりあえなく崩壊する。
大枠だと、ディストピアものかもしれないが、ありがちなペシミスティック感は弱い。
登場人物にもオプティミスティック感が漂っていて、どこか寓話や童話めいたものを感じさせる。たぶん、それが最後まで読ませてくれたのだろう。

 

「解説―あるいはそうであったかもしれないロシア革命」古川哲で、同時期に書かれたザミーチャンの『われら』と比較している。『われら』は、共産主義国家の行く末を描いたまさにディストピアもの。発禁になるのはわかる。

 

「訳者あとがき」で、スラヴォイ・ジジェクが著者の「熱烈なファン」であることを知る。確かに。ジジェク好みだと思うし、作中の活発な共産主義談義は、ジジェクの文章を彷彿とさせる。


本作は未完成のままシベリアの永久凍土のように埋もれていた。それが陽の目を浴び、解凍されて、訳者二人の労苦によって日本語で読める。これも、地球温暖化のせいだろうか。いいや。

 

パゾリーニの巻頭レビューと地図、解説と訳者あとがきを一読してようやっと全貌が見えて来た。

 

だから共産主義はダメなんだと思うあなた、同じくらい資本主義だってダメだと思うよ。

 

soneakira.hatenablog.com

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