バタイユ 1978 (5)

 

 

『内的体験』をぼくは1978年の夏に読んだ。大学の講義の最中に。図書館で。ジャズを聴きながら。コピーライターの学校の冷房の効きすぎた、だだっ広い部屋の中で。東北線の急行列車の中で。暑いK市の家で。この本を読むのは、苦行でもあり、安楽でもあった。バタイユは言う。「内的体験とは、赤裸の体験である」と。文字通りぼくは赤裸になって文字を吸い取ることに努力した。

 

バタイユの本を読むことは読めた。バタイユについて考えることは考えた。そしてそれを書き留めようとすると、その考えは逃げてしまうのだ。これと同じことを文字にした人がぼくの知る限り二人いる。パスカルサルトルである。サルトルの眼の良さをつくづく痛感させられた。
 
思想家、社会学者としてのバタイユと、文学者、評論家としてバタイユと、どちらに魅力を感じるだろうか。どちらかと言えば、ぼくは後者のほうである。「家」とか「者」とかを抜きにして述べるならこうなる。書き言葉のバタイユか、話し言葉バタイユかと。ぼくはバタイユの生な体験に魅かれるのである。言うなれば、ミーハーである。あからさまになったバタイユの生な文章に、人一倍の愛着を感じるのである。だからどうしてもバタイユの抜き書きが多くなってしまった。


「毎日少しずつよけいに私は、学問的な書物から引き出された諸観念が-結局は知的隷属状態へとさそいこむものでしかないことを理解したのだった」

 

たとえバタイユがそう思っても、彼は歴史の渦に巻き込まれ、さらに重い足枷をはめられる。バタイユ自身述べているように、彼の思想には脈絡というものがない。だから、とまどった。でも、バタイユの断片に魅了された。ことに『内的体験』に。『内的体験』をぼくは、(思索の)結晶だと考える。今まで読んだ著作で、これがベストである。確かに難しい日本文だ。

 

思い入れがほとんどかもしれない。ぼく自身わからない、バタイユをどの程度理解しているかは。片思いの恋が最も強烈であると言ったのは誰だろう。とどのつまりは、書くこと(エクリチュール)なのである。文字表記なのである。文学も、反文学もない。書くこと(エクリチュール)の如実な例をあげよう。クレジオである。彼は理屈にとらわれず自由に小説を書ける。なぜ。頭を痛めた。そして何冊か彼の著作を読んでいるうちに、次の一文に出くわした。

 

クレジオの一文を引用。

 

「為すべきだろうと、書くこと(エクリテュール)の神秘を真に明るみに出すために為すべきだろうことは、力のぎりぎり限界にいたるまで書くことである。考えること、そしてその思考を記号によって、絶え間なく、ついには眠りこみ、気を失い、あるいは死んでしまうまで、規程していくこと。これはほとんど異を唱えがたい唯一の実験である。そのあとは、もはや沈黙しかない」

 

さりげなくクレジオはこの一文を書いている。とにかく書かなければ何も始らないと言っている。バタイユだってそうだ。ディレンマに陥りながらも書き続けた。このディレンマは、現代の作家たちの共有しているものなのである。

 

悪と性。いや悪だけあげればいい。「悪」こそ文学のみならず全ての根源なのである。バタイユも悪について触れてきた。彼がサドや青髭ジ・ル・ドレに触手を伸ばしたのは当然のことと思われる。

 

哲学はいつも遅れてやって来た。これに文句を言う者はいないだろう。なら、文学はどうなのだろう。世の動きに対してである。同時代の意識があるとする。まず、それはわからないものなのだろう。別に不可知論をくり拡げるわけではないが。


バタイユから哲学へと話がとりとめもなく展開してしまったようだ。断片だらけの文の構造のみがバタイユに似ているね。と、口の悪い奴ならぼくにそう言うだろう。さらに、至らないことをついでに言おう。まず、エロティシズムに対するバタイユの理論に対する考察が全くないことである。これは、あくまでもぼくが文学者、評論家としてバタイユをとらえたいという意図と、エロティシズムの項目をくわえると、際限なく文章がひろがっていくような気がしたからと、今後にとっておきたいと思ったからだ。

 

バタイユのエロティシズムとは、どんなものなのか。引用してみることにする。

 

「エロティシズムの問題は、非連続性(個体的)を基とする世界の内部に、その世界が受容可能な連続性(小さな死)*をとり入れ、連続性の感情を与えることにある。エロティシズムが、非連続の秩序の基礎をなす規則的社会生活の破壊、日常性の否定、相手の存在の死にも等しい侵犯を伴い、暴力と戦慄と死と結びつくのはそのためである。エロティシズムがこのような宗教的意味を、神聖さを失うとき、それはけがらわしいものとなる」

 *小さな死とは、性行為における高まりの極みという意味。プティ・モール。


バタイユが『エロティシズム』を執筆するモティーフとなったのが、有名な中国人の処刑されているところの一枚の写真である。手足を刎ねられ死んでいる男の顔は、苦痛どころか、むしろ恍惚のそれに近い。この一枚の写真が、バタイユのエロティシズムを象徴的に物語っている。

 

バタイユは現代の百科全書的知を有している。『バタイユ全集』15巻のタイトルを見れば、了解しうることである。それを煮詰めて生成されたのが哲学である。そしてどうなったのか。言葉の中でもがいていて、すっかり身動きがとれなくなってしまった。

 

再び物識りの時代になりつつあるようだ。フーコーの文章を読んで、なぜバタイユが偉大なのかを知らされた。サルトルは、主義にとらわれたエッセイストとしてバタイユを紹介している。
 書くべきことは一切埋め尽くした。さて、あとは沈黙だ。



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