バタイユ 1978 (1)

 

 

引越しの段ボールを開けていたら、卒論のファイルが出て来た。お気に入りだったパイロットの太字万年筆で書かれた原稿。誤字・脱字、意味不明な箇所に指導教授である矢内原伊作先生の赤鉛筆チェックが入っている。これを以前、入力して昔のブログに載せていた。昔のブログは消滅したので改めて再アップ。若書きというのかバカ書きというのか。3回に分けて掲載。


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ボワデッフルは、『小説はどこへ行くか』の中で次のように述べている。

「今日、ジョルジュ・バターユ、ピエール・クロソウスキーモーリス・ブランショ、サミュエル・ベケット、あるいはアラン・ロブグリエのような作家と、もっとも日常的な現実を複写しつづけている大多数の作家とのあいだに文学的空間をつくっている形而上学的深淵はさらに大きい」


三島由紀夫バタイユをこうとらえている。

「現代西洋文学で、私のもっとも注目する作家は、他ならぬこのバタイユや、クロソウスキーゴンブロヴィッチであるが、それといふのも、これらの文学には、十九世紀を通り越して十八世紀と二十世紀を直に結ぶような、形而上学と人間の肉体との、なまなましい、又、荒々しい無礼な直結が見られるからであり、反心理主義と、反リアリズムと、エロティックな抽象主義と、直截な象徴技法と、その裏にひそむ宇宙観などの、多くの共通した特徴が見られるからである」

 

二つの引用に共通しているのは、「形而上学」という言葉である。「形而上学」という言葉は、産業革命以来、永らく悪しき言葉とされてきた。人間の進歩や文明を阻むものとされてきた。十七、十八世紀は、形而上学に支えられながらの認識論が主であった。十九世紀は認識論を社会科学にまで止揚させたマルクス主義により、形而上学よりも認識論が主流となった。いわば科学万能時代なのである。


ところが、二十世紀になって一変したのである。つまり、人間至上主義の時代であり、
科学に対して絶対の信頼の置けない時代が二十世紀なのである。社会的な意識と科学的業績との食い違い。これが二十世紀の芸術と文学の土壌なのである。サルトルの文を借りれば次のようになる。

 

「このことから、独特な不条理体験がわれわれに出現したのだった。それはヤスパースの裂け目、マルローの死、ハイデッガーの遺棄[被投性]」、カフカの死刑執行猶予の状態にある存在、カミュにおけるシーシュポスの偏執狂な空しい労働、ブランショのアミナダブが語るところである」

 バタイユもその中に存在しているのである。彼の作品を通してうかがえる世界は、まさしく、十九世紀小説に対するアンチテーゼの出し方が破壊的な形を取る作品の系列、すなわち破壊即創造、非文学即文学という二十世紀小説のそれなのである。


 エルンスト・フィッシャーは、その著作『芸術はなぜ必要なのか』の中で次のように述べている。二十世紀の芸術についてである。

「両方とも、人間と人間関係を既成の考え方にわずらわされることなく率直に自分の眼で見直し、現実と称されているものを白紙還元して彼ら流にそれを再建しようとする」

 

 要するに言語なのである。言語がその効力を失いはじめたのである。言語の持つものは空虚しかない。こう述べているのはバタイユだけではない。けれど、やはりバタイユなのだとぼくは思わざるを得ないのである。


 バタイユの文章は難しいと思う。けれど、ぼくは彼の著作を読み通すことができた。キェルケゴール流に言うなら、ぼくはバタイユに誘惑されたのである。特にバタイユの小説は素晴らしいと思う。『眼球譚』をぼくは一気に読み終えた。その時のノートをここに写してみる。

眼球譚

確かにここにはシュールレアリズムがある。そして死への願望がある。モノトーンで繰
り広げられる静寂でエロティックな世界。頁が進むにつれ、どんどん形而上学的深淵の中へはまり込んでいってしまう。酩酊感。それはそうだろう。人間のセックスに対するあらん限りの欲望がそこにあるのだから。そこには主体的人間としてのモラルなど破片もない。
人間が自然にふるまう行為が反人間的とは。恋人よりも娼婦と寝たい男ばっかり知っているのは当然だろう。この物語は、ヌヴォー・ロマンよりもサドの小説に似ているようだ。

言葉が虚しい。これを伝えるのも言葉である。沈黙を伝えるのに「沈黙」という言葉を
使って、意味を伝達するのである。ぼくの『眼球譚』評は、今こうして読み直してみると余りいい文とは言えない。けれど、バタイユに完全にお熱だというのはわかる。ぼくは、この短文を今年(1978年)の二月頃に書いたと思う。娼婦という言葉を用いているが、それは『マダム・エドワルダ』を同時に読んでいたからである。

小説についていろんな評価の方法がある。ぼくは、面白いものがベストだ。と、いう考
え方を支持する。そこをもう少し、具体的にと尋ねられるだろう。前衛だろうが、古典だろうが、面白いものは面白いのである。わけのわからぬものをありがたがるのは、どうにも我慢のできぬものである。『眼球譚』は、エロティックな本である。そして、とても面白い作品である。ぼくはこれを言いたい。難解なものに価値を認めるなんてヘーゲルだけで沢山ではないか。

バタイユは一度文字になって書かれた思想は、もうすでに自分の一部ではない。と、は
っきり断言している。決して「文は人なり」ではないのである。言葉を選び取る時点で、レトリックは開始されているのである。

 

『空の青』

この小説も気に入っている。重苦しくて、頽廃的な世界。太陽すらも鈍色に輝いている
のである。酒ばかりの毎日を送っている男が主人公。戦争(第一次世界大戦)と裂け目と内なる叫び。セリーヌの小説をどうしても思い浮かべてしまう。『夜の果ての旅』。セリーヌの方が先に作品を発表している。果たしてバタイユセリーヌをどう思っていたのだろう。
ぼくの頭には、ドイツ表現主義とか、ベルリンと言ったような固有名詞が頭をよぎる。

バタイユの著作の根底にあるのは、憤怒である。怖れでもなければ、慄き、嘆きでもな
い。何が書かせているのか。認識への欲求、人間の極限的な生経験への欲求だと言う。バタイユニーチェではない。ニーチェ的な面があるにすぎない。サルトルによると、バタイユの表現しようとしているものは、人間の中の裂け目なのである。「裂け目」=「割れ目」=落差=「抑圧」、つまり悪である。バタイユは悪をとらえようとした。


ルソーはこう述べている。近親相姦のタブーによって人間の中の「自然」と「社会」が
はじめて分離し、「社会」も「悪」も「言語」も全てそれと同時に発生する。さらに矢印は、フロイトを通りレヴィ=ストロースへ向かった。その矢印の上に浮かんでいるのがバタイユなのである。

 

フーコーは自分の先駆者の一人であるバタイユについてこう述べている。

西欧文化は、その発展のなかで、閉口部の現前を否定し、女の性器を否定し、穴の観念そのものを駆逐することをやめなかった。パルメニデスの球的存在、虚無の考えうるもの外への追放、一種の文化的仏神崇拝(性的な差異を否定する、これらが西欧的な考察を基礎づけているのだ。バタイユの著作は、このような伝統を拒否するのである)」

 「百科全書」という言葉がある。現在では余り良い意味には使われていないようである。バタイユが試みたのは形而上学であり、百科全書なのである。哲学が余りにも純度を追い求め過ぎたため、単なるアルコールになってしまった。哲学から人間的なものが消滅してしまった。バタイユは「知」が贅肉として切り落としてしまったものの中に「知」を見つけたのである。ちょっとフーコー的なバタイユの感もするが、(前述した)大きな矢印がその方向を失ってしまった。仕方なしに、当然にゴミ捨て場へと足を向けたのである。それは、中世というゴミ捨て場なのである。永らく中世は暗黒時代とされてきた。バタイユは、そこで数々の「知」を拾った。「青髭ジル・ド・レ」である。彼は『ジル・ド・レ論』を書き上げた。ジャン・ティンゲリーバタイユである。


 バタイユは「裂け目」を表現しようとした。感性なのである、それは。感性はずたずたになっている。つまり、感傷である。センチメンタルは何も女学生のものだけではないのである。バタイユ自身、こう述べている。

「私は感性的体験によって生きているのであって、論理的釈明によって生きているのではない」

 

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