変わった?変わらない?

 

“フェミニン”の哲学

“フェミニン”の哲学

  • 作者:後藤 浩子
  • 発売日: 2006/04/01
  • メディア: 単行本
 

 

「<フェミニンの哲学>」後藤浩子著を読んだ。

「はじめに」でこんな文章と遭遇する。

 

「「フェミニズムって何ですか」―これは、簡単なようでいて、私にとってはもっとも手ごわい、いつも答えに窮する質問である」

 

 きっぱり答えられて誰もが納得するものだったら、巷で騒々しい論争は起こらないだろう。

 

「仕方なく、私はG.C.スピヴァクの著書のタイトルをそのまま借りて、「別の諸世界(イン・アザー・ワールズ)に立ってみること」と一言で答えるのだが、このような説明で、理解と納得を示す人はほとんどいない」

 

宇宙から地球を見る。未開文明から近代文明を見る。彼岸から此岸を見る。

 

ピエール・クロソウスキーは、無償の贈与こそが、実は価値が生まれる原初的な構造を作り出すものであることを指摘している」

「私たちはこの設定を「母」への考察へと転用できるだろう。受け取らないために与える絶対的贈与者(=母)と、受け取る能力にしたがって受け取るが、受け取ったもの以上のものを返せない享受者(=子)との間に根源的な非対称性(言い換えれば、交換不可能性)がある。この非対称性によってこそ、絶対的贈与者の価値が享受者の側に発生する。絶対的贈与者は、受け取らないために与えるその能力によって、逆に価値あるものとして大きくなるのである」

 作者は、レヴィ=ストロースの(あるいはバタイユ)「交換」を拝借しているが、考えさせられる。育児が無償、無辜の贈与、すなわち見返りを求めない行為であったはずだが、昨今はハイリスク・ハイリターンのような投資のごとき子育てが蔓延しているのは、仕方のないことなのだろうか。

 

母は絶対的贈与者か。最近、このポジションを奪わんと家庭に入る父が増えているらしいが、どうなのだろう。会社で閑職に追いやられて時間が余っているなら、本でも読んだり、バイトでもしたほうが家族のためという気がする。家庭に母は二人は要らない。じゃあ、キャンプに子どもを連れて行って夜、星座を教えてあげるって、それはどうもTVCMの絵空事のような気がしてならない。素晴らしいとは思うが。

「母親とこの間だけではなく、人と人の間には、非対称性(交換不可能性)を孕みつつ贈与に向う連動があり、それゆえに欲望、価値、駆け引きが生み出される。この意味で、これらの贈与は、根源的な生産なのである。家族に法的な意味での拘束性ではない何らかの凝集性があるとすれば、それは贈与の連鎖がもたらす負債と返礼の駆け引きの所産である」

 

「贈与の連鎖」か。直観だけど、この本のタイトルが違うかも、それで損してるかも。

 

「エロティシズム探求の途上でバタイユレヴィ=ストロースに出会い、一つの手掛かりを得たのだ」
「しかし、バタイユレヴィ=ストロースの「娘の交換」の展開の仕方にある不満を覚えた」

「人間のセクシュアリティとはこのような禁止の侵犯と性の横溢への欲望だが、バタイユは、このようなセクシュアリティこそ、「人間が物に換言されることに最大限抗っているもの」なのだと捉える。禁止の侵犯と性の横溢によって人間は「動物」となる。こうして、人間は物の相と動物の相を行きつ戻りつする。これがエロティシズムの構造なのである」

 この「動物」の概念も、動物化の動物とは意味するものが違うんだよね。

 

「近親婚の禁止は、渇望の対象としての女性をもたらす規則なのである。しかし、それが交換の原理、つまり労働力としての女性の分配を保障する原理としてのみ解されることによって、結婚そのものから、エロティシズムの契機が締め出されてしまう」

 

  バタイユ曰く

「女性はもっぱらその子供を産む能力と労働力という意味をもつようになったのである」

 

つまり、近代・現代の女性は、産む性、育てる性、働く性とみなされる。そのことを親や先生からの教育により刷り込まれる。なら、反対が産まない性、育てない性、働かない性。それが、「人間が物に換言されることに最大限抗っているもの」ってことになるのか。

 

この本は10のテーマからなる。シングル曲を集めたアルバムのような論考集である。
時折、意図しているのか、変拍子のものもあって、それがぼくには魅力となっている。
作者の今後のテーマの種子のようなものである。どこがどのように発芽し育っていくか。

作者は、ジェンダー論ではなく「マイナー哲学であり続けることを志向する」フェミニズムに、拘泥していくと最終段落で述べている。

 

まとまらず。2006年に書いたレビューだが、状況は今でも変わっていないようだ。

 

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