バタイユ 1978 (2)

 

 

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 バタイユモラリストだったのだろうか。モンテーニュパスカルデカルトたちのような。サルトルは、バタイユのうちに、パスカルの特徴をひとつならず見出すそうである。バタイユ自身の著作から、うかがってみることにしよう。『内的体験』をぼくは、バタイユ版『テスト氏』と述べた。けれどこうも言えるのである。(ポール・ヴァレリーバタイユは彼をアカデミズムの最も完成された代表者と見なしていたが、ヴァレリーは彼にとって―この完璧さが理由で―第一号の敵であった)


 彼はマドレーヌ・シャプサルのインタビューに対し、こう答えている。

「むしろ自分は哲学者だと思っていました。何よりもまず、哲学の方に向かったのです。ただ、哲学といっても、われこそは本当に哲学者でございとは言えないような程度で考えていたのです。私はもう少しで、哲学者になりかけましたし、私の著書にはそれに接近し没入したものもありますが、私の書いたものと本当の哲学との間には距離があることは自分でわかっていたのです。 なぜなら、哲学者の名にふさわしい哲学者は、どこまでも自己の思考に脈絡をつけ、つなぎ合わせることができなくてはいけないのに、私は長期にわたって自分の思考につき従うことができないのです」

 

 哲学者ではない哲学者、つまり非‐哲学者がモラリストなのだとぼくは思う。哲学用語といった極めて不適当な言葉を用いずに、日常語で文章を綴り、見方も広く、なんていうのかな、机に向かって書くのではなく、カフェテラスで書くっていう、そういうのがモラリストだと思う。

 

 しかし、ここで頭を痛める。バタイユの文章は平易ではないのである。ニーチェヘーゲルに影響を受けたという彼の文体は、なかなかどうして骨っぽく、翻訳がまずいとは言えない。彼の著作全般を眺めてみると、前半と後半では、かなり内容が違ってきている。前半は確かにニーチェヘーゲル。後半にはハイデッガーの哲学がかなり取り入れられているのではないだろうか。さらに彼の欲求は、とどまることを知らず晩年には、ヨーガにまで手を伸ばしているのである。

彼の生涯を記載すると

1915年    カトリックへの入信
1920年    信仰喪失
1930年    ヘーゲル研究
1931~34年  マルキシズムへの接近
1936年    ニーチェ及び社会学への傾倒
1938年    ヨガへの開眼 神秘的体験


 サルトルは、彼を二十世紀の神秘家としている。一方、ジャック・デリダは、バタイユは神秘家ではないとしている。彼が哲学者、詩人、小説家、社会学者、図書館員、魔術師、何であろうともいいのである。モラリストとぼくは述べたが、リベルタンと呼称してもいい。光り輝く十八世紀へ舞い戻ってしまうのである。カントやルソー、そしてサド侯爵のいた十八世紀へ。M.ナドーが言うように、彼こそ我々に最も現前している作家なのである。

 

 彼の小説を読んでいても、あまり小説を読んでいる気はしないだろう。ヌヴォー・ロマンなのである。バタイユは言葉がいかに虚しいものであるかを知っていた。彼がかつてアンドレ・ブルトンのグループにいたことを知って驚く人が大半だろう。大半は、オーバーかな。けれど、「へえ~」位は言うはずである。

 

 アンドレ・ブルトンは、こう書いている。

バタイユ氏は、一日のうちに数時間を、図書館員らしい慎重な指先で、古ぼけた、だが時によっては魅力的な原稿をしらべるひとで過ごしているので、夜になると、不潔なものを腹いっぱいに食べざるを得ないのだ」

 バタイユはネコの眼のように夜になると輝きだし、ネコの眼のように変わりつづけたのである。『内的体験』の中でこう述べている。

 

「一冊の本を書こうとすると、ほとんど毎回書き上げる前に疲労がやってきてしまう。自分が練りあげた企てに私は少しずつ無関係になっていくのである。前の晩、私の心を何が燃やしていたのか忘れてしまい、夢うつつのうちに、ゆっくりと、一時間ごとに私は変貌する。私は私自身からすりぬけ、私の本は私からすりぬける。それはほぼ完全に、ひとつの忘れられた名前のごときものになる。不承不承にその名前を思い出そうとするのだが、忘却の真黒な感情が私の胸をしめつけるのである」

 

 忘却の真黒な感情。バタイユディオニュソスなのである。

 

 彼の『呪われた部分』は、社会学者マルセル・モースのポトラッチを大胆に取り入れたものである。もっとも、『呪われた部分』は、あまり面白く読めなかったが。ぼくはバタイユの真相を明かそうとやっきになっている。けれど、バタイユは仮面をつけたままなのだ。ふと、疑問が生じた。それは仮面の下に素顔があるのかということである。バタイユは一つの顔しか持っていないのである。仮面が顔なのである。仮面があくまでも素顔なのである。


 バタイユの本を読み終えるたびに、ぼくは名状しがたいものに四肢をもぎ取られる。それはある面では、恍惚であり、またある意味では痛みなのである。

 

 バタイユが生涯忘れ得ぬ女性についてここで触れねばなるまい。バタイユは「社会批評」時代、ロールという女性と知り合った。年譜によれば、1931~33年頃である。彼はその当時、再びブルトンと手を結び、反ファシズム運動に身を燃やしていた。そして1938年。パリのサン・ジェルマンでバタイユと同棲していたロールは死んだのである。愛する女性に何もしてやれなくて、死が近づきつつあるのをただ見ているだけ。このことが、彼を政治運動から身を退かせ、哲学的・神秘主義的色彩を深めていった。これを契機にしてエロティシズムへの考察が始まったのである。

 

 ハイデッガーの『存在と時間』から死に関する部分を引用してみる。

「ひとは確実な死を[内容的知識や事実として深く]知って[識って]」はいるけれども、それでも、死を本来的に確かめて「在る」のではないのです。現存在の転落的な日常性は、死の確実性[の特長などを全体的によく]知っていて、しかも確実で在ることを回避しています」

 

 ロールの死が、後にバタイユに『無神学大全』を書かせたのである。ロールの死は、まさに内的体験だったのである。キェルケゴールは、レギーネオルセンとの婚約を破棄し、『あれか、これか』を著した。バタイユはロールの死を通して『有罪者』『内的体験』を記したのである。
 バタイユは自分自身をさらに黒く塗りつぶしたのである。

 

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