バタイユ 1978 (3)

 

3.

 バタイユがよく用いた、そして彼の思想の中で重要な位置を占める「非‐知(ノンサヴォワール)」についてあれこれ考えてみる。

 「非‐知については、私たちがする非‐知の経験の枠内においてしか語ることができないということなのであり、それというのも非‐知はいかなる場合でも結果を持たない経験ではありえないということです」

サルトルは、非‐知についてこう述べている。

「主観の真向かいに対象をつくりあげるのは知である。非‐知とは『対象と主観の抹殺、主観による対象の所有に至らぬための唯一の手段』である」

 

 非‐知と無知とでは意味が全く違うのである。知、即ち、「知る」ということは一体どういうことなのか。「見る」と「わかる」が等号で結ばれることだとぼくは思う。あるものを「見る」そして「わかる」に至るまでに不可欠なものがある。それは言葉である。 非‐知には言葉がないのでる。「見る」と「わかる」と、二つに書き分けたが、「知」において、それらは全く同じことなのである。だとすれば、「見えない」「わからない」が非‐知なのか。そうではない。表現すべき言葉がないということである。言葉における表現力の無力さということである。

「言葉は例えば極度に単純な一観念、すなわち単純明快な喪失に対する消費というような観念を表現することができないのです」

 けれど、ぼくたちは言葉でコミュニケィトするのである。「我思う」から「我語る」という過程において、はじめて主体は言葉へと分散するのである。中村雄二郎氏は、このことについて『哲学の現在』の中でこう述べている。

 

「このように『私は語る』が『私は考える』に結びつくことによって、『私は考える』において一度ことばへと拡散し共同主観の一部と化した私の主体は、共同主観の上に考える主体を含みつつ、語る主体として回復されるのである」

 中村氏は、共同主観により、現在の危機を乗り越えられるという立場から述べられている。けれど、バタイユには、そんな期待や希望などは無視いのである。ジンテーゼのない弁証法が、バタイユのやり方なのである。バタイユは、現実に、葛藤のみを見るのである。言葉の無力さを十分に知りながらも、尚、いやそれだからこそバタイユは文字表記(エクリテュール)をしたのではあるまいか。


 矛盾があってはいけないのは、論理の上だけだと思うのである。矛盾だらけで現に生きているのだから。自分が思うようにならない。かと言って世界が自分を思うようにしているわけではない。絶望したくなければ期待しないことだ。尤もなことだと思う。期待-絶望-忘却。これは弁証法でも何でもなくて人間の生きる技術だとぼくは思う。生きる技術の最たるものが記憶、追憶の類なのだ。実に身勝手なのである。人間の記憶はメカニズムのそれと違い、各自都合良く脚色されている。

 

 バタイユを矛盾だらけの人間―小学三年生の時に好んでよく使った言葉で言えば、二重人格者だと思った。図書館に昼間勤務して、夜はこっそり良からぬ写真などを眺めて、匿名でポルノグラフィーを出版することを考えるのだから。けれど、人間には幾つかの顔がある。あって当然で一つとしか顔を持っていないのは聖人か、大ペテン師かどちらかなのだ。よくよく考えてみると、バタイユの顔は、結局一つなのだ。聖人か、ペテン師か二者択一することができない。ジョルジュ・バタイユは、*ロード・オーシュ(『眼球譚』の作者)でも、*ピエール・アンジェリック(『マダム・エドワルダ』の作者)でもなく、ジョルジュ・バタイユなのだ。

 

 バタイユは闇の中にいて文字を書く。サルトル流に言えばバタイユは誰かに語りたかった。非‐知の体験なのだろう、恐らく、それは。まだぼくは断言できないでいるが。ぼんやりとしたまま。やはり観念を文字表記することは難しい。まして日本語で。そも哲学なる言葉だって翻訳語なのだから。

 

 『眼球譚』の冒頭で、バタイユは盲目の父親について触れている。年譜を見たら、これが事実であることがわかった。彼の父親は狂死した。そして愛するロールの死。バタイユ自身も父親と同様に、全身麻痺の凄惨な苦しみのうちにパリで逝去したのである。バタイユの作品の嗅ぎとれるのは、死なのである。後で述べようと思うが、エロティシズムも笑いも、全て死から始らなければいけないのである。<生>―<死>、<明>―<暗>、<昼>―<夜>。単なる対立語の記述にすぎない。けれど、それはシンボルだとしたら。<死><闇><夜>、バタイユのシンボルなのである。

 

「私は、自分が語ろうと思うことを表現できないという私のこの無力から出発します」「私は、経験から出発しました」

 

 非‐知とは定義不可能なものであり、思考が考えることのできないものだと、述べている。そして、それは遊びと同じなのであると、記述している。


 ロマン→アンチ・ロマン(ヌーヴォー・ロマン)という図式がある。ヌーヴォー・ロマンというカテゴリーだって千差万別である。アンチだろうが、ヌーヴォーだろうがロマンであることに変わりはないはずである。確かにロマンのありきたりのどうでもいいようなこと―例えばサロートが言うような、「カーペットの描写など」―は、文字の浪費と言わざるを得ない。バタイユの小説(ロマン)は、それらしくはない。けれど退屈ではない。難解なのがいいと言っているのではない。難解なものでもいいものがあると言っている。バタイユは『内的体験』で、人間と言葉について次のように述べている。

人間についていえば、人間の現存在は言語に結びついている。各人は、自分の現存在を言葉の助けを借りつつ想定し、したがって認識する。言葉は人間の頭脳に、おびただしい人間の現存在に充たされつつ―あるいは人間ならざる現存在に充たされつつやってくる。その大量の現存在との関係において、人間の個人的現存在は存在するのである。現存在は人間にあっては言葉によって間接化されるのだ」

 

 「にんげん」という言葉を介して、人間は自分が「にんげん」であるということを認識するのである。自分によく似た他者を見て、自分が「にんげん」という動物であることを認識するのである。

 

 なぜバタイユは、こんなにも沈痛なのか。苦しげなのか。バタイユ自身言うように、経験から出発からなのかもしれない。非‐知がわからないままのぼくは無‐知なのだろう。

 



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