笑い。バタイユは笑いを、エロティシズムと同じように消費とみなしている。
『内的体験』の序文で次のように述べている。
「笑いの分析が、共有の厳密な主情的認識のもたらす与件と、推論的認識のもたらす与件との一致する場を開いてくれた。さまざまな消費形態(笑い、ヒロイズム、恍惚、供儀、ポエジー、エロチスム、その他)の持つ、たがいに相手の中に消滅しあう内容が、自発的に、孤立と存在消滅とのあいだに交されるゲームを規整すべき交感(コミュニカシオン)の一法則を決定してくれた」
なぜ笑うのか。サルトルの言うように、「ベルグソンの白い笑いとバタイユの黄色い笑い」とはどう違うのか。笑。いかにも人間が笑ったような顔である。ワライカワセミや『不思議の国のアリス』に登場してくるチェシャ猫を除きさえすれば。
バタイユは、不安と笑いを同一のものとしている。そして作家や哲学者たちは、不安について述べてきた。得たいの知れないもの、理由の判らぬものに対して、人間は不安の念を抱くとしている。ところが、バタイユは、そんな不条理なものに対しては、人間は笑うのだと言っている。
笑いを分析するほど、野暮なものはないと思う。けれど、笑いもまた「裂け目」の一種なのである。なぜ笑うのか。恐らくは、自分と他人の差異を笑うことによって、その隙間を埋めてしまおうとするからだ。これがベルグソンの白い笑いである。黄色い笑いはアイロニーでもなければ、シニシズムでもなければ、ブラックでもない。白い笑いは現状から逃げようとする。さもなければ、うまく現状を丸め込んでしまう。しかし、現状に直面させるのである。「笑ってごまかす」のでは断じてない。
「『存在と時間』第一巻の文章よりも(少なくともその外見よりも)、第二巻を書けずにいるその無力さの方が私をハイデッガーに近づけるのである。他方、いちじるしい差異の方も指摘しておきたい。―私は笑いから出発しているのであって、『形而上学とは何か』でハイデッガーがやっているように不安から出発しているのではない。このことは、まさに至高性の次元において、さまざまな帰結を生んでいるはずだ(不安は至高の瞬間だけれども、自分自身から逃走する、否定的瞬間であろう)。」①
さらにバタイユは、シャプサルのインタビューで、こう言っている。
「私にとって、笑いはあらゆることの根底なのです。条件が一つある、つまり、肝心なのは自分自身について笑うことであって、いかなる場合にも、他人を笑い者にすることによって我慢のならぬものから抜け出したなどと考えないということなのです」②
自分自身について笑う。自嘲のあとのあれなのだろうか。笑いとは妥協的態度であるとぼくは述べたが、そうではないとバタイユはきっぱりと述べている。と、すれば、やはり認識への欲求に他ならないのだ。不気味な得たいの知れない笑い。夜の笑い、ディオニュソスの笑いなのである。大いなる生への称讃、いや待て。バタイユ自身、生きることを称讃したのだろうか。
なぜ笑うのか。 それは「存在と死とが同一性であることを隠すためである」とも、バタイユは言っている。おわかり願えるだろうか。短絡だよ、そんなの。そう言われる人もいるだろう。けれど、笑っている間に死を考える人はいないだろう。笑っている最中に、ああ生きているんだなあなどと実感を勝手につかむ人がいても。
不安が「死に至る病」とするならば、笑いは何なのだろう。ぼくも不安も笑いも同じであると考える。
ハイデッガーは、『形而上学とは何か』の中で、こう述べている。前出のバタイユの引用部分に該当するところを引き抜いてみよう。
「人間は不安の中に浮かんでいる。その不安が時として言葉を黙させる。そして沈黙と同時にいっさいの存在物が遠ざかり、かわって無が立ち現われる。その気味悪い無のうつろな静けさ。それに耐えられず、人びとは、ただとりとめもないおしゃべりでその静けさを破ろうとするのだ」
バタイユの述べるところの笑いと実存哲学者の言う不安とは、やはり同一なものにしかぼくには思えないのである。なぜバタイユが笑いにこだわるのか。笑いは目に見えるが、不安は目に見えないから(?)だとぼくは考える。次の引用を読めば、ぼくの述べたことがよくわかってもらえる。
「純粋な精神革命を目指すブルトンたちの立場はきわめて芸術的、観念的であったのに対して、バタイユの視野には、考古学や民族学や宗教学や社会学などの、どちらかといえば事実尊重の実証的な学問があった」③
バタイユはすでに知っていたのである。不安を伝える「不安」という言葉の持つ無力さを。「笑い」は現象である。そこで次のバタイユの文へと結びつく。
「非-知の哲学の枠内においてしか、笑いについて語ることは不可能だということは理解されうるのではないでしょうか」④
「哲学的な省察はまず第一に笑いを対象としなければならなかった」⑤
やはりニーチェの笑いをバタイユは意味したいのだろう。ヘーゲルとニーチェに感化されたが、(笑いに関しては)ニーチェの影響が大きいようだ。だとしたら、バタイユは単なるニーチェの信奉者にしかすぎない。バタイユに、「あなたは、ニーチェのエピゴーネンなんですね」と、言ったら、怒りもせずに、むしろ笑みを浮かべながら「おお、その通りです。よくわかりましたね」と、言うに違いない。
「私はまた、痩せぎすで、現代的であると同時にロマンティックな趣きのあるあるこの人物の優雅さを帯びた外貌にも(加うるに、もちろん若々しく、さらに無頓着さがあった)感じ入っていた」⑥
笑い。生理学的に述べるのが簡単そうでいいのだが、そうもいくまい。嬉しいから笑うのではなく、笑うから嬉しいのである。なるほどと思うだろう。そしてすぐに、そうだろうかと思いはじめる。これを人間の性(さが)のせいにするのは、無責任すぎるだろうか。
参考文献
①『内的体験』 G.バタイユ 出口裕弘訳
②『作家の仕事場』 20世紀文学の証言マドレーヌ・シャプサル編
③『C神父』 解説若林 真
④⑤講演『「非‐知(ノンサヴォワール)」について』 G.バタイユ 渡辺守章訳
⑥『ロード・オーシュの時代について』 M.レリス 後藤辰男訳