私たちにいまでもハイデガーの『存在と時間』は有効か

 

 

ハイデガー-世界内存在を生きる-』高井ゆと里著を読む。

 

ハイデガーの『存在と時間岩波文庫全3巻は、学生時代に読み通せた数少ない本。
あ、一応読んだということで、わかったかというと甚だ心許ない。

 

なぜ読み通せたのか。他の哲学書が観念的(ま、一応)、小難しいジャーゴンだらけなのに対し、『存在と時間』は何かシステム論的というのか、人間社会の構造や自己と他者の関係性の枠組などが書かれていて、比較的とっつきやすかったから。

 

ま、大テーマがである「私たちがそれぞれ「私」の生を生きているとはどのようなことか」というのも、若い時分のぼくには関心の高いものだった。

 

この本は『存在と時間』があまりにも「実存主義」及び「存在論」の金字塔として鎮座しているが、そのような定番的な読み方はやめて違う読み方をしてみても新しい魅力はあるという観点から論じられている。

 

当該箇所引用。

「私たちは『存在と時間』を存分に堪能すればよい。なぜ「存在」でも「時間」でもなく、私たちの「生」についての分析が展開されているのかと、ためらう必要はない。私たちは『存在と時間』の内容を、のびやかに味わえばよい。私たちがおのおのの自分の生を生きているとはどのようなことなのかについて、ハイデガーと共に考え、その哲学書の内実を存分に堪能すればよい」

 

代表的なタームである「世界内存在」(das In-der-Welt-sein)に、シビれたわけだが、本作ではこう述べている。

「私たちが日常的に、ふつうに生きているときの在りよう、ハイデガーが「日常的な在りかた」と呼ぶ私たちの日常の分析こそが、周囲世界分析の中心部分を形成する。「世界の内にあるもの」という仰々しい言葉で指されているのは、ひとまずは、私たちの日常生活のなかに存在している、様々な存在者たちのことである」

「存在者」と述べているが、

「服」は「掃除機」など「私たちの日常生活における行為に深いかかわりを持つ」ものであると。「世界の内にあるもの」=「「手許のもの」と述語化している」「その代表例が道具である」


もう一つの代表的なタームが「現存在」(dasein)。

存在と時間』からの作者の引用の引用。

「日常的な現存在とは<誰か>という問いには、それは<ひと>であると答えられる。<ひと>はだれでもない者であり、共同相互存在において、全ての現存在はそのつどすでにこのだれでもない者へと引きわたされている。(『存在と時間』(128))」

 

作者はこの箇所をこのように読み解く。

「私たちは他者と共にある。他者たちとともにある世界に生まれ、他者たちとともに同じような生き方を自然に身に着けていく。そのことだけで
私たちは<ひと>になるのである」

ここだよなあ。そう心から思えれば差別や偏見なんかは生まれないのに。つくづく思う、今日この頃。

 

ずうっと後に『科学者が人間であること』中村桂子著を読んでいたら、ハイデガーの「世界内存在」(das In-der-Welt-sein)に、ユクスキュルの提唱する「環世界」(Umwelt)が、インスパイアを与えたことを知って、腑に落ちた。


人気blogランキング