著者の本で、たとえば、アディクション、共依存という言葉と概念を知る。さらに、うまく言えないもやもやしていることを明らかにしてくれた。「臨床の現場に立ち続けるカウンセラー」として医療とは異なる「援助」を模索している著者の日々、感じたことが記されている。
適宜引用。
「断酒に伴い徐々に鮮明になる痛みの感覚を言葉として表現しそれを緩和するために再飲酒する女性依存症者と、弱さにつながる情緒や痛みという感覚を言語化することなく、うつ状態から再飲酒に至る男性依存症者。この鮮明な対比に私は深く印象づけられた」
何もアルコール依存症のみならず、さまざまな場面でしゃべりまくる女性としゃべらない男性の違いが如実に表れている気がする。
「2011年の東日本大震災に際して多くの人たちを席巻した「不幸の比較」と主観的体験の剥奪はつながっているように思われる」
どういうことか。
「自分の痛みは自分のものであり、訪れる痛みを受苦すること。そしてそれが痛みであると他者に承認されること。しかし他者に剥奪され侵入されてはならないこと。痛みは、自我や自己と呼ばれる文脈化され構築された主体の基底を支える土台なのだ。過去と現在、身体と心をつなぎながら、決して歓迎されることのない感覚として痛みは私たちを訪れる」
痛みの効用とでもいうのか。ロラン・バルトやドストエフスキーも真っ青になる一文。ただただ共感するばかり。
「習慣的にアルコールを飲んで家族を困らせる父親、その妻である母親と子どもたち、この三者それぞれに対して、依存症、共依存、アダルト・チルドレン(AC)という別個の名前がつけられた」
三項関係を深堀りすると。
「家族に対する責任を放棄しながら、家長の権力だけをふりかざしてケアを要求する父親、経済的支柱である父親が倒れないようにケアを備給し支え続ける母親、両親の関心外に置かれ幼少時より親に代わって責任を負う子どもたち。父は仕事に、母は結婚生活にそれぞれ挫折し、子どもは目の前で日常的に繰り広げられる暴力的な両親の関係にさらされ続けることで、自らの存在が親の不幸の源泉ではないかという罪責感を刻印される。アルコール家族のこのような姿は、性別役割分業とプライバシー重視に貫かれた近代家族のひとつの典型のように思われる」
ただただ納得するばかり。
「酔った夫から当初はケアを強制された妻は、時間をかけて「愛情」「世間」「常識」という隠れ蓑をまとった不定形の自己を膨張させ、ついにはケアによって夫の力を奪うようにまで変貌「」するのである。アルコール依存症の妻が多くの妻たちの典型であるならば、結婚生活に挫折を感じつつもその中で生きるしかない女性たちが編み出した生存戦略が、ケアの名を借りた力と支配の行使である共依存である」
確か著者の本だったと思うが、この場合のキラーワードが「あなたのため」。本来のケアと「ケアの名を借りた力」。マウントをとったケア。紛らわしいこと、この上ない。
「じつは日本では21世紀になるまで、家族の間に「暴力」は存在しなかった。正確に言えば、妻に「手を上げる」夫はいても、妻に暴力をふるう夫は存在しなかったのである。「法は家庭に入らず」という法の理念によって、「暴力」という判断は家庭の入り口で立ち止まらざるを得なかった。そもそも暴力という言葉には、すでに「正義(ジャスティス)は被害者にある」という価値判断が埋め込まれている。その判断のおよばない世界こそ家庭だという考えは、今でも一部の人達に共有されている。家族の美風がそれによって壊されてしまうと真顔で主張する中高年男性は多い。法が適応されない=無法地帯が家庭だったのだ」
「家族の間に「暴力」は存在しなかった」。そんな。ラカンの「女性は存在しない」と同等に響く。幼い子への折檻や虐待を「躾のため」とか。夫婦別姓とて決められないのは「一部の人達」の反対のせいなのか。