サウイフモノニワタシハナリタイ―「男らしさ」の呪縛からの脱却

 

 

『マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か-#MeTooに加われない男たち-』杉田俊介著を読む。

 

フェミニズム―わかっているようで実はよくわかっていない。「男らしさ」って何だろう。snsなどで断片的な知識は得ているが、やはり本で教えてもらおうと、この本を選んだ。

「男性たちのハラスメントや性暴力を批判し、男性特権に基づく不公正な男社会の変革を求める女性たちの声」


カマキリ先生が旬の人になっているけど。

「他方では、女性たちの「行き過ぎた正しさ」(!?)を批判し、抑圧し、性差別を固定しようとする声たちも依然として根強くある。俺たちは差別ではなく区別しているだけだ、資源を奪われ不当に差別されているのは多数派のほうだ、「強者女性」よりも「弱者男性」のほうが苛酷な状況にある、マスコミやメディアは真実を覆い隠している…」

 

「多数派の男性」の一人であるぼくなんて、ガチそう思ったりするのだが。

 

「多数派の男性と女性や性的マイノリティの間にあるのは、対等な立場同士の「分断」ではなくて、非対称で不公正な「落差」というべきものだろう」

ううむ、確かに、そうだ。

ミソジニー」というと女性嫌悪のことかと思ったら、そこに根深いものがあったと。
コーネル大学哲学科准教授ケイト・マンによると

ミソジニーとは必ずしも女性をモノ扱いしたり、人間存在(being)と見なさないわけでなく、女性は男に何かを与える者(giver)でなければならないと、決めつけている、という点です。―略―女性はつねに男性に対し道徳的=ケア的に援助・気遣いするべきだ。そうやって女性たちは「道徳的財」「道徳的資源」を搾取されているのです。―略―こうした性差別的でミソジニー的なシステムに対し、男性たちは、無自覚な特権性を自覚し、それを反省的に問い直していくことを求められています」

 

内助の功」とか「糟糠の妻」が死語になる日はいつ。

 

では、マジョリティ男性がまっとうに生きるとは、どういうことなのか。該当箇所を引用。

「反動的で家父長的な男らしさに居直るのでもなく、マイノリティやフェミニズムに憑依(フリーライド)するのでもなく、「男もつらいんだ」と被害者男性に逃げ込むのでもなく―、マジョリティ男性としての内外のさまざまな痛み(不幸、鬱屈、重圧、不自由)を抑圧もせずに、相矛盾する欲望に四方八方へと身を引き裂かれながら、おろおろと迷いながら、おたおたと失敗しながら、それでも「私たち」(マジョリティ男性)はまっとうになるため、脱暴力的な男性になるために、今よりも自由に生きていけるために、試行錯誤するんだ、やるんだ、そういう道がありうるんだ……、そういうことをもっともっと言っていかないと、公然と発言し、行動していかないと、多数派の男たちは本当にどうしようもないのではないでしょうか」

 

これこそが
「マジョリティ・メンズリブ」だと。

くどいかもしれないが。引用。

 

「自分をジェンダー的に「正しい男」として鍛錬し調教し管理するのではなく、自らの「男」として傷をケアし、自分と和解すること。自分をまずは赦すことによって、男らしさの呪縛から脱していくこと。依存症サバイバーたちの智慧に従えば、男らしさという病からの完治(完全な和解、完璧な回復)は不可能だとしても、男たちも回復し続けることはできます。回復することによって「男らしさ」の呪縛から脱し続けること、自分を赦し続けることができるはずです」

 

「サウイフモノニワタシハナリタイ」(〔雨ニモマケズ宮澤賢治)

 

特売のスペアリブを電気圧力なべで煮込みながら、「マジョリティ・メンズリブ」を考える。


人気blogランキング