『新しい声を聞くぼくたち』河野真太郎著を読む。
「本書のテーマは「ポストフェミニズム状況における男性性」です」
それは、こういうことだと。
「本章(第1章)では現代におけるもっとも重要な対立、つまり反省的なフェミニズム的/男性学的男性性と、そうではない新たなミソジニー的な男性性(もしくは「弱者男性論」的男性性の対立をまずは確認しました)」
「新たなミソジニー的な男性性」とは、こういうことだと。
「新たな盛り上がりを見せているフェミニズムに対して、自分たちも女性たちと同様に現代の社会の中で苦しみを受けているのであり、フェミニズムによって女性ばかりが「優遇」されるのは間違っている、といった感情を特徴とするような男性性です」
あの、ぼくにもあるなあ。男性は損だとか、女性が羨ましいとか、嫉妬する気持ち。
なら、この「対立を解除」するには、どう考えて、どう行動すべきか。
「イクメン」という言葉がある。
「コミュ力が高く、上機嫌で人当たりのよい「イクメン」が理想化されているのが現在のすべてであるとするなら、そのようなどこにもない理想像に乗ることのできない男性たちのルサンチマンとそこから生じるミソジニーに応答することはできなくなるでしょう」
個人的に好きではない。子どもが保育園に通う頃、わけあって自宅でフリーランス稼業を再開したぼくは、保育園の送り迎えをしたし、月曜日の朝のシーツの交換もした。でも、イクメンとは思わなかった。イケメンと言われた方がずうっとうれしいし。
でもなあ、はっきり言って『マジンガーZ』に出て来るあしゅら男爵のように、半分は「子育ては母親の仕事」という昭和の男性性、もう半分はキラキライクメン的な男性性。自己矛盾で分裂しそう。
「現在、私たちは独特な形で老害となることを、引退することなく働き続け、若い世代の足を引っぱることを強いられている。私たちは「老後」を奪われているのです」
企業の定年延長や雇用年齢の引き上げなどがそうだ。年金だけで老後を暮らしていけるならば、引退、隠居を楽しめるのだが、それが不可能だから老体にムチうって働く。それが、若者層の雇用に悪影響を与えている。
では、どうなれば、どうすればいいのだろう。
「老齢とそれにともなう依存の必要という問題を、個人の「自己責任」に押しつけることがない―つまり福祉カットの緊縮イデオロギーとはならないような「老後」であればよいのです。それは「老後」において健常的な(そして異性愛的な)身体を保持し、福祉に依存することがない人間を理想化し、それのよって緊縮を名実ともに正当化してしまうことがないものである必要があります」
アンチ「自助」、「共助」、「公助」か。すなわち「ケアする社会」。「普遍的ケア」をあげている。社会学者・障害学者の石川准の述べている「配慮の平等」だと。引用の引用。
「「配慮を必要としない多くの人々」と「配慮を必要とする少数の人々」がいるという考え方が社会通念としてあると思います。しかし、そうではないと思うんですよ。「すでに配慮されている人々」と「いまだ配慮されていない人々」がいるというのが正しい見方だと思うんです」
で、具体的に作者が考えているのがBI(ベーシック・インカム)。
「資力調査なしに収入に(性別、年齢別―加筆ソネ)関係なく個人に対して同額が支給される」さらに「資力調査がないので生活保護に「スティグマ」(不名誉、汚名)を与えないことです」
BIでまとまった収入が得られることで、男性は稼がなきゃということから解放されるし、
「基本的生存権の実現によって「新たな能力/新たな健常者主義」の線引きが
無効になるでしょう」
「ケア」はフェミニズムのみならず「新たな男性性」を模索するうえでのキーワードとは。
この手の本では、もっとも読んでいてフィットした。勉強にもなったし。
惜しむらくはネタに取りあげられた映画と漫画が知らないものばかり。とりわけ漫画のほうが。