さかしま

 

 

昔のブログから。

 

遅ればせながら話題のドキュメンタリー『A』森達也監督と『ボウリング・フォー・コロンバイン』をビデオで立て続けに見た。三軒茶屋のTSUTAYAでは、同じコーナーに置かれていた。

 

オウム真理教(現アーレフ)を内面から映した『A』は、予想していたよりも軽く、『ボウリング・フォー・コロンバイン』は、予想していたよりも重たかった。『A』に関していえば「荒木広報副部長のプロモーションビデオね」と見終えた後の妻のぽつりとつぶやいた一言に集約される。うまいこと、いうぜ。

 

ボウリング・フォー・コロンバイン』は、アメリカ人が、いかにガン・アディクト(銃器依存症)であるかがわかる。けど、スーパーマーケットで平気で銃や弾丸が売られているのはショックだよなあ。ぼくは、大好きなアニメーション『サウスパーク』の作者(同じ町出身!)によるアメリカ人はなぜ銃を手放せないのかを歴史で追ったショートアニメーションがよかった。

 

で、『A』に話を戻そう。このドキュメンタリーは、マスコミの報道や市民の対応などをオウム側からのぞいたものなのだが、これが面白かった。報道陣の世論の代表的勘違い態度からくる横柄さにはヘキエキするし、公安のヤクザまがいのインネンのつけ方も、なんか全共闘時代の逮捕マニュアルが、まだ通用してるのかなと思えたし、国家の圧力の恐ろしさも感じた。おばちゃんの「あんたのお母さんが泣いてるよ」的お説教も、おばちゃんはイデオロギーやドクサや尊師をも超克するんだなとつくづく感じ入った。

 

もはや記憶の底にあるサティアンや道場の映像が映し出される。雪を頂いた富士山が神々しいまでに、真正面に見える絶好のロケーションにサティアンは、あった。けど、修行場という言葉には程遠いほど、散乱した室内は、大学生のむさ苦しいアパートを思わせる。

 

一般的に、どの宗教も新たな信者を増やしていくことは必須であり、地球上の人類全部を信者にすることが教義の最終目的であるはずなのだが、オウムはハルマゲドンが来て、生き残るのはオウム信者だけだという、そのあたりが、オカルト、アニメ好き世代のエリート意識をくすぐった。

 

偶然、昔の『宣伝会議』をペラペラしてたら、市井のヘーゲル学者長谷川宏のこんな一文に出くわした。リンクするんで引用する。

 

「(ヘーゲルは考えました。)つまり、自分たちの行為は個人的な行為である。個人として何を行なうかということと、個人的な行為がどこまで社会的な承認を得られるか、個人としての視点を離れて社会的にどういう意味を持つのかという2つの視点を持つことが、近代社会を生きる個人の基本的な生き方だと考えたわけです」

 

「(一部略)ヘーゲルはそういう精神を持つことを共同体精神と呼んでいます。そして、この視野を持つことができるかどうかが、近代人の教養の大きさであると考えたわけです」

 

「2つの視点」のうち、彼らには、後者がすっぽり抜け落ちているのではないだろうか。出家もあくまで、個人レベルのことである。本来、菩薩行とは、そういうものではないはず。そのあたりで、ぼくには理解不能となる。

 

荒木広報副部長以下登場してくるオウム真理教(現アーレフ)の人々は、愚直なまでに、ピュア、きわめて不器用であり、見ているうちにある種、シンパシーさえ抱いてくるようになるから不思議だ。

 

しかし、オウム真理教の起こした数々の事件は、厳然たる事実であり、許せない行為であり、風化させてはならない。と、こんな、もっともらしい結びで終わりたくはないのだが。


追伸

三軒茶屋のTSUTAYAは書店のみ残り、レンタル部門は、ユニクロになっている。

 

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