戦争による帰国。船上で去来したものは

 

『日米交換船』鶴見俊輔加藤典洋黒川創著を読む。

 

最初の鼎談がひじょうにすばらしく、いままで鶴見が明かさなかった留学時代、留学船、「日米交換船」*など、第二次世界大戦の様子が生々しく語られている。

 

日本では不良で女性に溺れ、落第生だった鶴見がハーヴァード大学では心を入れ替え(?)優等生になる。鶴見はそれを「一番病」と称している。ホワイトヘッドラッセル、クワインなど当時の哲学の最前線を講演や講義で体験している。一見やわらかくユーモアで包まれたものいいをする鶴見だが、根底には十代の頃に学んだプラグマティズムがあるとは意外な発見だ(少なくとも、ぼくにとっては)。言葉への不信感、言葉で綴られる論理への疑念とかそういうことなんだけど…。

 

当時の留学生、高級官僚、実業家たちインテリゲンチャの戦争観もうかがいしれるし、
やはり船の旅というイメージが時代は逼迫しているのに、どことなく余裕を感じさせるが、それもまた一つの戦争模様なのだろう。

 

冒頭の鼎談の補稿といったら失礼か、膨大な資料を綿密に読み込み、まとめていた黒川創の原稿もとても参考になる。


もう少し早くこの本に着手していたら、生存されていた方々にインタビュー証言がとれ、いっそう深みのある内容になったと思われる。

 

平野甲賀の装丁なので、てっきり晶文社かと思ったら新潮社から刊行されていた。

 

「日米交換船」の同乗者たちは、いわば「一番病」の権化みたいなものだけど、昨今流行りの「オンリーワン」よか「一番病」、「ナンバーワン」を目指したほうが、いいんじゃないかとぼくは思う。マッチョっぽいかもしれないが。はなっから「オンリーワン」っていうのは、逃げうってるようで。理屈をいうならば、「オンリーワン」は、他に類がないそれぞれのポジションでの「ナンバーワン」じゃないのだろうか。「一番病」にかかる、かからないは、後々の人生、響いてくるとは思えるのだが。

 

戦禍が激しくなると、当然の如く、「日米交換船」は中止となる。


*「日米交換船」
1942年(昭和17年)5月、太平洋戦争(大東亜戦争)開戦後に日米に抑留された双方の外交官・市民の交換が合意された。交換船が運行されることとなり、日本の外務省は、外国船舶の入手と確保を行っていた帝国船舶が入手したコンテ・ヴェルデと、衝突事故を起こしたことがある浅間丸を交換船に用意した。(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』 )

 

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