多文化主義の必然性とは

 

 

『アラブ政治の今を読む』池内恵著を読む。


作者よりも、父親や伯父さんの方がぼくにはなじみが深い。何せ父親がカフカ&温泉狂、伯父さんが理系の教授&名エッセイストとして知られる。

 

読んでいて思ったのは、文体が優秀なブログのように感じられること。あまりひねくりまわさずストレートな物言いで、参考としてさまざまなURLを付記しているあたりの構成は、まさにブログだ。

 

実際に作者はアラブ圏で暮らす。部屋でTVを見て、新聞を読んで、町へ出る。その肌で感じたことと学んだことを混ぜ合わせて、発酵させて、論文へと構築していく。

こんな感じ。またまた長い引用ですんまそん。

 

イスラーム世界とその他の文化圏との対話の困難は、「固有の文化」同士の「差異」による摩擦とは性質を異にする面がある。イスラーム教の主張する「普遍性」と、近代リベラリズムの通用する世界において受け止められる普遍性との対立が浮上してくるからである。宗教間の対話という場において、リベラリズムの観点からは宗教的他者に対しては原則として「固有の文化を尊重」する「寛容」の姿勢を示す。リベラリズムによる「寛容」論がそのままでは共存の理論的基礎として不十分となるのは、特定の宗教、固有文化の側がみずからの「普遍性」の主張を一歩も譲らない場合である」

 

「文明間対話が功を奏するためには各宗教、文化の価値体系の内側からのみ普遍性を認められる基準ではなく、複数の価値体系を横断する次元に対話の思想を設置する必要があるだろう」

 

「このような状況下では、イスラーム世界の外部の思想的展開から、多宗教・多文化間の対等な立場での対話と共存を可能にする理論的根拠を見出し、それを発展させてイスラーム世界を包摂する形に再構成し、イスラーム世界に対して問いを投げかけてゆくという能動的な態度が必要だろう」

 

「「対話」の思想的基礎づけの試みとして、近年の北米を中心とした多文化主義の思想に注目してみたい」

 

ふと、中沢新一が『チベットモーツァルト』を引っさげ、デビューしたあたりを思い出した。ただし、かたや宗教学者、かたやイスラーム政治思想学者、カテゴリーが違うと、かくもコンテンツは異なるものか。

 

アルジャジーラが「半島」という意味を遅ればせながら知った。それとわかっていたけど、アルジャジーラの報道がすべて正しくはないとも。ま、これは、報道全般に言えることだけど。

 

「複数の価値体系を横断する次元に対話の思想を設置する必要がある」

 

これは、いろんなことに言える。

 

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