均一ではなく混血。これが、現状を打破する可能性を孕んでいる

 

 

昔、書いたものだが、いまの方がさらに通じると思うので再掲載。

クレオール主義』今福龍太著を読む。

 

ますます悪名高い(?)グローバル主義に対抗する言葉として脚光を浴びているのが、「クレオール主義」である。


「<クレオール>は語源的にはポルトガル語の<クリアール(育てる)>とそれから派生した<クリオウロ>(新大陸で生まれた黒人奴隷)に由来する」。やがて「クレオールは第一に新大陸や他の植民地圏で生まれた白人および黒人(さらに後には、その混血)を意味したのであり、やがてその結果として彼らの習慣や言語も指すようになった」
「全世界の旧植民地地帯に広く点在するさまざまなクレオール語のほぼ半数近くがカリブ海周辺地域に集中している」

 

クレオールと聞いて、あなたは何を連想されるだろうか。音楽好きの人ならば、『キッド・クレオール&ザ・ココナッツ』と答えられるかもしれない。インチキそうな男と見目麗しき女性陣が歌って踊る陽気なファンカラティーナ(だよね)は、かつてのヒットチャートをにぎわせていた。

 


Kid Creole And The Coconuts on TVCF


 

クレオール主義」とは、

「固有言語の閉鎖空間を離脱して複数のことばの主体的併用を選択し、民族の境界を踏みこえて混血の理念を実践し、国家という制度からの意志的なエミグレーションをこころみること…」

と述べている。

 

ちょっと前に流行ったボーダレス社会と一見似ていて全然非なる言葉だ。ボーダレス社会が(嫌な言葉だが、)先進国の経済を基準に発しているのに対してクレオール主義は、異なる座標軸を取っている。

 

「「混血」の思想は、単一の原理にすべてを従わせようとするあらゆる権力に対して、もっともシンプルで徹底的な抵抗となりうるからだ」

作者は文化の「混血性」の具体例としてロシア・アヴァンギャルドの代表的詩人フレーブニコフやバフチーンを取り上げ、さらに1920年代に開花したブラジル・モダニズムを紹介している。やはり『未来世紀ブラジル』なのだろうか。

 

文化人類学者である作者がニューメキシコキューバ、ブラジルなどへ旅をして直接感じた空気感は、まったく古びていない。いろんな顔、いろんな肌、金はないが陽気に今日を生きる術(すべ)を知っている人々。ただただ羨ましいと思う。

 

本書が出版されてから事体は、キナ臭く、ますますデッドエンドにはまりつつある。
クレオール主義」もしくはその考え方が、「現代のポストコロニアルな文化の窮状」や民族主義レイシズム(人種差別主義)を打破する可能性を秘めていることを示唆している。

 

1つだけその例を挙げよう。「ネイティブ」というワードの裏には、植民地に「西欧文化が失った何かを保持しているように見え」だから「西欧人の懐旧的な「あこがれ」を誘ったとしても不思議ではなかった」。侵略しておきながら、一方でその国独自の文化を保護したり、習慣を重んじる。これを「帝国主義的ノスタルジー」と呼称し、いわゆる文明-野蛮の対立図式や先進国が後進国を文明国にキャッチアップさせようとする不遜な姿勢が我々にもあることは否めないとしている。

 

エドワード・サイードの「オリエンタリズム」じゃん。サイード、再読。

 

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