非対称的世界がもたらしたもの

 

 

『緑の資本論中沢新一著を読む。

 

本書を執筆するモチベーションとなったのは、9.11.以降の「国家の蛮行」と「イスラームに対する偏見や無知への憤り」である。さらに付け加えるならばアンチ「グローバリズム」も。

 

「圧倒的な非対称によって支えられている今日の文明は、潜在的なテロの脅威を抱えつつ繁栄を享受しようとするために、文明の奥深い舞台裏ではたえまない無法な弾圧や殺戮がくりかえされることになるのだ」

 

作者は「(世界は)圧倒的な非対称である」と述べている。それは「富んだ世界」と「貧困な世界」。換言するならばデバイド、格差である。そしてその非対称の産物がテロであり狂牛病であると。

 

宮沢賢治の童話『氷河鼠の毛皮』を踏まえ、「貧困な世界」が「富んだ世界」に対してテロ行為を行なったかを考察している。作者の文章を通してなぜ宮沢賢治の童話に名状しがたい怖さを抱いていたのか少しだけわかったような気がした。宮沢賢治は田中智学が創立した「国柱会」の信者であり、熱烈な日蓮主義者であった。賢治は「富んだ世界」から搾取され続けている「貧困な世界」を救おうと生涯戦い続けた。そのファナティックな情熱はある種、イスラム原理主義者に通ずるものがあるとみるのは、うがちすぎだろうか。

 

「人間は牛たちに同類の脳や内臓を飼料として与え、共食いさせることによって、彼らの脳をスポンジにしてしまった」 狂牛病も傲慢な人間に対する動物からの報復行為である的一文も、レトリックの好き嫌いはあるにせよ、主旨には首肯できる。

 

標題である『緑の資本論』ではイスラームについて述べている。キリスト教イスラーム教の違いをとらえ、資本主義社会と非資本主義社会(適切な言葉が思い浮かばないので仮に)が鏡像関係にあることを宗教学者ならでのやわらかな表現で訴えている。

 

イエス・キリスト像を礼拝するキリスト教徒と礼拝の対象をもたない、すなわち、偶像崇拝ではないイスラーム教徒。「利子(利潤)を否定するイスラーム」 「イスラーム一神教は『タウヒード』の論理に貫かれている。タウヒードとは、アラビア語で『ただ一つとする(一化する)』を意味する」

 

「原理におけるイスラームは、利潤が生み出す豊かな社会を拒否してでも、世界が意味に満たされてあることのほうを選びたいと考えるのである。その世界はなにからなにまでが直接的で、資本主義の目からすれば、遅れた貧しい社会と映るかもしれないが、人間が意味に生きる生き物であるかぎりにおいては、はるかに豊かな世界であると、言えるのではないか」

 

憤りが基底になっているだけに、いつになく強い口調である。イスラームのことをどれだけ知っていただろう。自分自身の不明を恥じ入るしかない。

 

繰り返しになるが、作者のポエティカルな文体は、人文関係の生硬な文体を浴び、凝り固まった頭を解きほぐしてくれる。いつものことながら、タイトルのつけ方のうまさに感服する。

 

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