悔いのない人生を生き切るために

 

 

『生命学に何ができるか 脳死フェミニズム・優生思想』森岡正博著を読む。    

 

いわゆる学者の書くものは、大概が、小難しいロジックをデコレートしたもので、学説の引用のパッチワークで、結局、何をいいたいんか、とツッコミを入れたくなるのだが、著者は、「私はこう思う」と、あっけらかんと心情を吐露している。いきなり読者にカミングアウトされても、とまどうばかりなのだが、読んでいるうちに、魅力を覚えてしまった。

 

しかし、その一方で、こうもファンダメンタルな問題ばかり突き詰められると、息苦しくなり、陰鬱になってしまったことも否めない事実である。

 

脳死に関して作者は、メルロ=ポンティの「間身体性」という言葉を引きながら、こう述べている。「脳死になったとしても、その人はまだ完全に死に切っているのではないという感覚は、多くの一般人がもつ感覚で感覚である」

 

しかし、「英語圏で成立した『生命倫理学』」においては、「意識のない人間はもはやひとにあらず」というパーソン論が主流であると。脳死=死と決めつけ、さっさと臓器移植して命を救う、そこに即物的、効率的なもの、強者(医者)と弱者(患者)の図式、あるいは医療の生命に対する傲慢さを、ぼくも感じてしまう。

 

フェミニズムに関しては、日本のフェミニズムの流れを俯瞰している。その中で、田中美津への言及が、ひかれた。

 

A−「田中のリブは、自己との出会いから出発し、女から女たちへとつながってゆき、そして最終的には男から男たちへの出会いを誘発することを目標とする。リブは、それを真正面から受けとめて自分自身を振り返る男たちが現われない限り、次のステップには進めないのである」

B−「田中は言う。『(女と男)闇の重さは共有できないが、共有できないということそれ自体を共有することはできる。そうやって、われわれはつながってゆける』」

Aへ進むには、まずBを共通認識することからなのだが、はてさて…。

 

優生学に関しては、優生保護法の「優生」と優生学の「優生」は、同巣であると。いわれてみるまで、まったく気がつかなかった。

 

「優生思想とは、生まれてきてほしい人間の生命と、そうでないものとを区別し、生まれてきてほしくない人間の生命は人工的に生まれないようにしてもかまわないとする考え方のことである」

 

「障害者と『内なる優生思想』」の章では、障害者の夫婦が、妊娠して生まれてくる子どもが健常児であることを望むのは、一見、正当のように思えるが、しかし、それは自分たちの生存証明を打ち消すことになるのではないかと。

 

最終章の最後の数行。

「われわれは、連帯しない。われわれは、自分の生きている地点にとどまったまま、それぞれ固有のメッセージを発信する。われわれは、この広大な世界の片隅で孤独に闘っている人々と微弱な電波を交信し、悔いのない人生を生き切るために、お互いに遠くからささえあってゆくのである」

 

科学(でなかったら理系)と文学(でいいのかどうかわからないので、なら文系)と宗教の学際的立場の人の本を、結果的に、かなり、読んでいるのだが、この箇所だけ引用してみると、それはあたかも新興宗教の教典の一部のようにも思える。

 

はまるか、はまらないか、読み手の評価が真っ二つに分れる本である。

 

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