変わり続けた晩熟の哲学者

 

 

ホワイトヘッド有機体の哲学- (現代思想冒険者たち)』 田中裕著を読む。

 

名前は知っていたが、詳しいことは知らない。なんで、入門書としてこの本をチョイス。

 

ケンブリッジ大学時代には数学的論理学を、ロンドン大学時代には自然学を、
アメリカのハーバード大学に招聘されてからは形而上学へ」

 

思想が若いときと晩年のときでは変わる学者は、多いが、その振れ幅の広さが半端ない。数学→形而上学なんて真逆もいいとこではないか。ただこの変身が60代になって代表的な著作に結実したとそうな。

 

早熟というとなんかカッコいいが、晩熟だってカッコいいじゃんと思える。
だって辛抱強く何十年も試行錯誤を重ねて重ねて思想の完成度なり独創性を高めていく。


ケンブリッジではバートランド・ラッセルの師匠筋だったから、ウィトゲンシュタインは孫弟子か。

 

以下だらだらと引用と感想を。

 

エコロジストの先駆けでもあったそうだ

「最近の「深いエコロジー」運動の特徴は、地球全体を生きた有機体と見なすことによって、人間をあくまでもその中の一つの生命として位置づける方向に向かっている。人間中心主義は、生命と主体的活動を人間にのみ固有のものと考え、他の存在を単なる客体としてしか見てこなかった」

 

ホワイトヘッドの哲学、特にその有機体論的自然観は深い意味でのエコロジー、即ち、自然の諸々の生命的活動の全体において人間の生を位置づける考え方の先駆でもあった。それは、現代世界の最も深刻な問題である地球の環境危機について、宇宙論的な展望を与える哲学でもある」

 

「ディープエコロジー」をあえて「深いエコロジー」と訳さなくてもいいかなと思う。
ま、些末なことだけど。

 

仏教思想も取り入れる

「プロセス神学者(アメリカの独自の神学の学派)たちが積極的に推し進めている活動の一つに、諸宗教との対話がある。従来のキリスト教中心主義の発想をはなれて異教徒の伝統からも謙虚に学ぶことは、現在のキリスト教会の趨勢でもあるが、ホワイトヘッドは特にキリスト教と仏教との対話を仲立ちする哲学と言う新しい観点から読み直されている」

 

ホワイトヘッドコスモロジーにおいては、現実の世界にある一切の事物は、実体としての性格を持たず、相互に他を含みつつ生成するが、これに仏教における「縁起=無自性=空」の動的な理解を対応させることによって、有機体の哲学を大乗仏教的に読むことが可能となり、ホワイトヘッドを媒介として仏教思想とキリスト教神学が対話する道が開かれたのだった」

 

生成といえばベルクソンあたりか。作者は西田幾多郎との共通点もあるとしている。

 

形而上学は一般的には「経験できない超越的対象を扱う学問」とみなされがちだが、「ホワイトヘッド形而上学という言葉を使うときには、このように、同時代の最先端の自然科学の「後に書かれるべき著作」を意味していた。彼は、プラトンの調節的な「イデア」を経験という大地に引き戻し、自然学の経験的な基盤のうえに再構築しようとした、アリストテレスの範例に従ったのである」

 

作者は有機体の哲学をこのように要約している。

 

有機体の哲学は、人間自身を含む自然の連帯性と共存性を自覚する。どの個体も孤立して存在することはなく、他のすべての存在とともにある。自然界の様々な生命の諸形態は「共に生きている」。さらに一般的に、個々の活動的存在は、他のすべての存在を含んで合成することによった、その個体としての独自の価値を実現する」

 

プラトンアリストテレス以来の西洋哲学の伝統に基づいて、相対性理論量子力学などアインシュタイン以後の(当時の)最先端の物理学を取り込んだものが「有機体の哲学」である」


数学者であり哲学者でもあったホワイトヘッドならではのもの。む、むずかしいが、魅力的。

 

「わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」

宮沢賢治の『春と修羅』の冒頭にもつながるなと、なんとなく思う。


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