『身体なき器官 』スラヴォイ・ジジェク著 長原 豊訳を読む。
いままでいろいろ読んできたジジェク本の中で、ぼくには、いちばんポップで、軽いように思える(ジジェク本比)。標題はご存知、思想界の藤子不二雄、ドゥルーズ=ガタリの『器官なき身体』をひっくり返したもの(最初はアルトーだよといいたい人に、ツッコミ防止で付記しておく)。
いきなり、こんなことを。
「哲学史におけるあらゆる偉大な『対話』は、多くの場合、誤解である。アリストテレスはプラトンを誤解し、トマス・アクィナスはアリストテレスを誤解し、ヘーゲルはカントとシェリングを誤解し、マルクスはヘーゲルを誤解し、ニーチェはキリストを誤解し、ハイデガーはヘーゲルを誤解したといったように。哲学者が他者に根本的影響を及ぼすとは、この影響が例外なく生産的誤読に根ざしていることを意味しているのだ」
いつものようにスキゾフレニックに、あっちへ飛んでは、こっちを引用。こっちへ飛んでは、あっちを引用。挙句の果てに、お約束の映画評論(ネタバレ要注意の)が挿入されたり。
象徴的去勢について語っているあたりにも興味をひかれた。
「去勢とは、私が直接−無媒介的に私であることと私にこうした「権威」を授与する象徴的権原との、ギャップである。−一部略−ファルスは、私の身体にこびり付きながらも、決してその「有機的一部」となることのない、言い換えれば、その内在的で過剰な代補として執拗な抵抗を続ける、私が身に纏う『身体なき器官』なのである」
ラカン派おなじみのファルスというターム。虚勢という概念。9.11で国際貿易センタービルは破壊されたが、あれは象徴的去勢の一表象なのかと。アメリカ帝国主義の去勢といえなくもない。ツインビルだったんで2本のファルスか。ふーむ。
ドーキンスの唱えるミームや遺伝子工学への言及にも鋭さを感じた。
「ペースメーカーや−一部略−遺伝子工学的に栽培された予備器官」により「『断片化された身体』が出現」し、「身体がみずからを愉しむ」ことを掠奪してしまった。それは「自然の終焉」であると。こじつければ、本来天然ものであった(あるいは神が創りたもうた)身体および器官が人工臓器などの代替物やES細胞などの養殖ものの台頭で(医療技術の進歩ともいうが)、身体なき器官はおろか、器官なき身体も通り越し、器官なき器官にさえなろうとしている。
いまさら「哲学的ゾンビ」(人とゾンビはどう違うのか)で机上の空論戦わさなくとも、現実問題としていつ人工臓器などのお世話になるのかはわからないわけで、そんな時代に生を享けたことを、しかと受け止めて。
作者はいう。しかし、ただそれを嘆くのではなく、「宗教的遺産の救済」にすがることなく、「私たちが科学の論理(あるいは倫理−筆者註)に最後まで突き詰める果てに出現するであろう自由の新たな形象であり、それは賭けるに値する自由」、それを獲得しようと。
ひょっとしてぼくのレビューも誤読から生まれたものかもしれない。でも、誤読でも「生産的誤読」と評していただけるなら、それは実に悦ばしい。