永遠の少女-2

 

アナイス・ニンの少女時代

アナイス・ニンの少女時代

 

 アナイス・ニンの少女時代』矢川澄子著を読む。


…にしても、華麗だ、華麗すぎる。「彼女の生涯にかかわりあったボーイたち」。父ホアキン・ニン、夫ヒューゴー・ガイラー、ヘンリー・ミラー精神分析医ルネ・アランディとオットー・ランク、アントナン・アルトーなどなど。アントナン“器官なき身体アルトーに声かけられて袖にする件は、やるう~、だね。
 
彼女の死後、「彼女の残した膨大な日録そのものの無削除版がぞくぞく世に出はじめ」た。いままで封印されていた部分を通して作者は、アナイス・ニン、とりわけ、少女時代を探る。
 
作者はなぜそこまでアナイス・ニンに拘泥するのだろうか。シンパシーを感じるのだろうか。
 

ティーンにさしかかったその頃に世の中を見回して、自分という存在に欠けているものは何かを見究めることで、その後の人生航路はほとんど定まってしまう」。

 

『三つ子の魂百まで』ではないが、どうやらここらあたりが、本作執筆のモチベーションとなっているようだ。換言するならば、その恰好の臨床例としてアナイス・ニンの少女時代を解剖しているのではないだろうか。
これをサナギからあでやかなチョウになったなどというレトリックを用いると、フェミニストズムの方々からお叱りを受けるかもしれないが。

ただし、彼女の、特に作家としての強烈な触媒となったのが、ヘンリー・ミラーであったことは否めないことだろう。
 
本作に掲載されている『あるモデルの話』は、作者(訳者でもある)によれば、あくまでも虚構であり、事実と混同されないようにと書いてあるのだが、読み進むうちに、モデルをしていた十代の頃の実体験なのだろうか。どの程度まで虚構なのか、あるいはすべてが真実なのだろうか。と、ぬかるみに嵌まり込んでしまう。

異性へのあこがれ、おそれ、それはセックスへのあこがれでもあり、おそれでもある。
そのあたりがよく描かれた品の良いポルノグラフィーだ。その昔、金子國義画伯が装画をしていた初期の富士見ロマン文庫を思い出す。

それと、天性には適わないなっていうこと。たとえばファッションモデルの肢体やスポーツ選手の身体能力、俳優の美貌、音楽家の持って生まれた音感など。山田風太郎が「人は遺伝が六割」と述べていたが、どんなに努力しても四割かよと端的に思った。なんか遺伝子の呪縛から人は逃れられないのか。

美貌と文才、あとは運かな。天は時には二物も三物も与える。金のスプーンをくわえて生まれてきた、アナイス・ニン
作者は、アナイス・ニンという恰好の題材を借りて、自分の思いのたけを吐露している。静かな文章の端々に、時折、少女で在り続けることへの変わらない意思の強さをそこに、感じ取られてならない。

この本を上梓して、作者はロンググッドバイしちまった。