『我は、おばさん』岡田育著を読む。
女はおばさんに生まれない、おばさんになるのだ ―シモーヌ・ド・ボーボワール女史の名言をパクれば、こうなる。
いきなりこう来る。「「おじさん」になりたかった」と。なりたかったおじさんは、ジャック・タチ監督演ずるムッシュ・ユロ。『ぼくの叔父さん』は、ぼくも大好きな映画で、ぼくもああいうおじさんにあこがれた。
そんなおじさんと比べて「おばさん」はどうだ。おじさんにはかわいらしさ(や哀愁)があるが、一般的にイメージされるおばさんはオバタリアンとか。自らおばさんと言う場合は自虐的な意味合いもあるが、他者からおばさんと言われると、むかつく、どつきたくもなる。
作者は、おばさんについて徹底的に検証する。
「少女と老婆の間に横たわる、長い長い時間を指す言葉「おばさん」」
「おばさんとは、人生の折り返し地点を迎えた者、少女時代を卒業し、与えられる側から与える側へ回った女たちのことである」
与えるのは、文学、音楽、映画、ファッション、アートなどいろいろあるが。
作者は、従叔母から萩尾望都の『ポーの一族』など少女漫画を教えられた。
『更級日記』の作者、菅原孝標女のように。
さらにロールモデルの一人として『梔子』の作者、野溝七生子をあげている。
野溝は作家兼大学教授で新橋第一ホテルに居住していた。
ヴァージニア・ウルフの名言「女には好きに使えるお金と部屋が必要」を
地でいった人。野溝との交流があった矢川澄子も澁澤龍彦との離婚後で、
経済的にも自活の道を探していた。
おばさんは軽んじがられがちだが、母は重んじられる。
子どもを産んで育てているからだ。母性。ああこの無敵の言葉。
職業婦人vs専業主婦。この二項対立もワーキングマザーの台頭により
時代遅れになったはず。
ところが、「子供が3歳ぐらいまでは母親は育児に専念すべき」説が根強くあるらしい。
おばさんは母でもなく「少女でもなく、老婆でもなく」。
『ガヴァネス(女家庭教師)―ヴィクトリア時代の「余った女」たち』川本静子著を参考にガヴァネスを紹介している。「ガヴァネス」とは「ヴィクトリア時代、中産階級家庭の未婚女性が就業できた住み込みの家庭教師」のこと。ヘレン・ケラーの家庭教師となったサリヴァン先生が、このガヴァネスの一人だそうだ。
作者が述べているおばさんの大切な役目「与える」仕事。家庭教師として専門化していくガヴァネス。
「森高千里が作詞を手がけた「私がオバサンになっても」」は、「1992年、彼女が二十代前半」のときの楽曲。それから20年近く経った。『私がオバサンになったよ』は、「私がオバサンになっても」への返歌。この本の巻末で作者と対談しているジェーン・スーの対談集のタイトル。
おもしろエッセイかと思ったら、メインカルチャーからサブカルチャーまで俎上に載せたどっしりとした骨のあるエッセイ、論考集だった。