捨てる仏あれば、拾う仏あり

 

 

廃仏毀釈-寺院・仏像破壊の真実-』畑中章宏著を読む。

 

今はお寺と神社は違うものだと思われている。しかし、それは日本の歴史全体から見ればつい最近のことだ。お寺と神社は商売敵ではなく双子のようなものだったようだ。

 

「現代の日本人には神社の代表だと思われている伊勢神宮にも、仏を祀る神宮寺があり、中部日本で独自の歴史を歩んできたかのように見える諏訪大社でも、神仏習合は濃密だった。ほかにも大阪の住吉大社も同様に神宮寺を構えていた」

明治になって「神仏習合」から一転して「廃仏毀釈」へ。
それは天皇制=国家神道という政府の方針だったのはわかる。

 

明治元年(1868年)の神仏分離令が発令され、さらに明治5年、修験禁止令が出され、修験道は禁止された。 山伏はあかんと。ところが、

「維新の時点で仏教を制したかのようにみえた神道の側も、明治39年(1906)の終りごろから始まった、一町村一神社を標準とせよという神社合祀の嵐に見舞われることになる。このときに最も激しく立ち向かったのが、粘菌研究者で民俗学者だった南方熊楠だったことはよく知られている」

神社がなくなるということは、神社の森もなくなることを意味する。エコロジストの先駆者たるゆえん。

 

この政府のやり口。歴史や文化を無視した機械的な町名変更とかも同じ流れにある。

 

しかし、本当に人々は歴史的に価値のある仏画などをたたき売りできたのだろうか。
つい先日まで拝んでいた仏像などを平気で破壊できたのだろうか。
タリバン政権が世界遺産であるバーミヤンの大仏立像を破壊したように。
でもなあ、あれは、異教徒だから。

 

作者は日本全国の神社仏閣を訪ねたり、古文書を読み解き、真相に迫る。

 

「幸か不幸か、廃仏毀釈の嵐を潜り抜けて、ほかの寺院に遷座されたり、博物館に収蔵されたりしている仏教美術は決して少なくない。破壊行為で失われたものをよみがえらせることはできないが、こうした流転をたどってみることは、近代史を見直す意味があるだろう」

面白いと思ったのは、廃寺となった僧侶が、すぐに神主に転職したこと。
今なら違和感を抱くが、当時はそうでもなかったのだろう。

 

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