『「つながり」という危ない快楽 格差のドアが閉じていく』速水由紀子著を読む。
はじめに作者は団塊ジュニア以降の世代を5つのコミュニティに分類しているが、「グローバル・コミュニティ」と「ローカル・コミュニティ」にポイントをしぼって紹介していく。
「グローバル・コミュニティ」とは、MBAを印籠にグローバル・スタンダードになって、起業してIPOしてサクセスという大人の階段を登るコースである。いわばヒルズ族系(死語か)。
一方「ローカル・コミュニティ」は、「「つながり」が最も大事」であって、でオンラインでは「ミクシィ、2ちゃんねる」であり、オフラインでは仲の良い「地元の」友人である。
確かに。かつてぼくも同好の士が集まるミクシィの某コミュニティは居心地がよく、めったにしないカキコミなんかもした。「つながり」の心地よさは実感できる。
若い人の話を聞いてると、やたらこの「地元」が出て来る。あとは、「実家」という言葉もよく耳にする。実家というと地方出身者なのかと思ったら、高円寺だったりして、親元で暮らしている。
ここで同書の鈴木謙介のコメント。
「コミュニティの内部と外部のシステム構築側、両方に足をかけているのが理想なのである」「完全に閉じられていると、今度はそこから出られなくなるのだ」「いまの日本の家庭には「どこか広い世界を見てこい」、または「ずっとうちにいて、私の子供でいてね」、の二者択一しかないことが、ある種の成熟を不可能にしている要因なのだ」
うまくまとまりきらないんで、同じようなテーマでハゲ同と非ハゲ同じをリンク。
それぞれ読むと、違いが明確になるはず。
◎ハゲ同
カトラー:katolerのマーケティング言論 頭の強い子の育て方、頭のよい子の育つ家
×非ハゲ同
あいはらひろゆきの「家族ブランディング」「フラット型家族の特徴(5)~“総合的人間力”をはぐくむ」
リンク切れ
「フラット化する家族」って何だ。子どもにとっていちばん身近な社会が家族であって、ヒエラルキーを体験しなければ、社会性は学習できないと思う。タメ口、きくのはぼくは全然問題ないけど、序列までタメ口ってのはどうかな。友だち家族ねえ。