小林兼光が四谷シモンになるまで

 

 

昔書いたのシリーズ-part3

『人形作家』四谷シモン著を読む。


妻が作者の人形教室に通っていた。そこはカルチャースクールだったので、大半はリッチなおばさんだったのだが、中には場違いな少年少女もいたという。

 

当然だが、教室では、人形をつくるわけで当時住んでいたマンションの部屋の一角に白い胡粉が塗られた手や足や胴体が並べられているさまは、バラバラ殺人事件のようだった。とりわけぼくが気に入っていたのは、ガラスの眼球で、妻が不在の時、光にかざしてみた。ガラスの眼球に剃刀をあてたり、ましてや肛門に入れたりとか、そういう趣向はない。念のため。

 

幼年時代、孤独を癒すために人形をつくりはじめた作者だが、不良だった中学生の時も、ロカビリー歌手の時も、紅テントの女形で名をはせた時も、人形づくりは中座することはなかった。なるべくして人形作家になったというよりも生まれついての人形作家なのだろう。

 

作者が東京オリンピック以前の東京について書いているシーンが鮮烈だ。作者は山の手、下町を幾度となく転居していて、都電、州崎パラダイス、映画館などその風俗や人種の違いなどを記している。

 

渋谷センター街で作者を見かけたことがある。長身痩躯、飄々と泳ぐように歩いていた。本書に写真が掲載されている『ピグマリオニスム・ナルシズム』と銘打たれた人形によく似ていた。

 

紀伊国屋のギャラリーや六本木のギャラリーで開催された展覧会にも妻のお供で覗きにいった。機械仕掛けの人形は、想像以上に大きく、たおやかな少年少女の顔(かんばせ)と相対して精巧な機械仕掛けの骨格や内臓とのギャップがすごく、シュールレアリスティックというよりもロボットのルーツはやはり人形なのだと思ってしまった。

 

作者を見出した嵐山光三郎は、前書きで作者に対して「ピノッキオを作った大工のジェペットじいさんを思い出した」と、うまい表現をしている。

 

60年代文化の真っ只中にいた人だけに、有名な状況劇場天井桟敷襲撃事件の武勇伝や金子國義渋澤龍彦−以下略−など数多くの人との交遊録も、アングラの熱気を感じさせる。役者の目から見た唐十郎寺山修司の演劇スタイルの違いなども、はじめて知った。

 

とりわけ、今の人形のスタイルをつくるきっかけとなったハンス・ベルメールの人形とその紹介記事を書いていた渋澤との邂逅が大きかったようだ。「60年代はダサイ」と毛嫌いしていた渋澤だったが。

 

書き下ろしなのか。語り下ろしなのか、ともかく読みやすかった本書は、ぼくには日経新聞の『私の履歴書』より、得るものが多かった。

 

今、思うと妻がつくった女の子の人形は、数年後に生まれる子どもに良く似ていた。

 

「人形の中なる空洞(うつろ) ひとかたを造るさみしき情熱は棲む」須永朝彦

 

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ピグマリオニスム・ナルシズム』

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球体関節人形

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