「理念的な「男らしさ」とみずからの「無力(不能)」の亀裂を埋めようと」するとき、暴力が生まれる

 

 

『暴力の哲学』酒井隆史を、ふむふむと読む。

 

この本でなぜトルーマン米国大統領が原爆投下にゴーサインを出したかというくだりが出てくるが、要するに「女々しく見られたくなかった」「男らしく見られたかった」マッチョな自意識のなせるものだそうだ。原爆投下のゴーサインをためらうようじゃ、一人前の男じゃねえ。坊やだからさ。ってなもん。

 

ここで作者は『仁義なき戦い』の脚本家笠原和夫の本をテキストにこのようなことを書いている。

「そこから『仁義なき戦い』はインポテンツの男の映画なのだ、という話に発展していくのですが、ここで笠原が言おうとしているのは、暴力の発生するときは、理念的な「男らしさ」とみずからの「無力(不能)」の亀裂を埋めようという運動があるのだと、いうことだとおもいます。みずからの「無力(不能)」とされる状態の否認です。ここはいわゆるDV(ドメスティック・ヴァイオレンス)の問題と関連するかもしれません」

 

イメージ(虚像)と現実の己の姿(実像)のギャップ(裂け目)。でも、「男らしさ」は簡単には脱ぎ捨てられない。『仁義なき戦い』シリーズを見ていると、この「「無力(不能)」の亀裂」ばっかだったもんなあ。

 

脇道にそれる。

 

かと思えば育児をほったらかして仕事などに逃げ込む父親もよくないが、逆に最近ありがちな積極的子育てヤングパパ(イクメンパパ)の過干渉では家庭内にママが二人存在することになり、よくないそうだ。
もっともママがパパ化してるからいいじゃん!という意見にも一票入れたいが、
それじゃあいけないらしい。非干渉と過干渉のはざまで、じゃあ、どーすればいいのよー。

 

うちでもついぽろりと「天皇家ぐらい男系にさせとけば。象徴なんだし。せめてお飾りでもいいから、オヤジたちは喜ぶよ。何も女性・女系にしなくても…」と、台所で皿を拭きながら話したら、うちの女系に、ものすごく怖い顔された。うちで男系は、ぼく一人なのさ。

 

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非暴力に関する考察が深いので、以下抜き書き。

 

市民社会が衰退して<政治的なもの>も凋落するいま、テロと非暴力の両極がその<政治的なもの>の真空を埋めるのだ、というわけです。-略-雰囲気としての非暴力が無力をもたらし、それがむしろ暴力を肥大化させているのではないか、という疑義でした」

言えてる。

「非暴力とはたんなる運動の戦術ではないしモラルでもなく、人々の日常的な生活状況-生産や労働、その果実の享受、そして創造活動-ひいては生そのものである。生産や労働も、そうした社会生活の非暴力的持続と不可分の関係にある。非暴力は、不可視であり、-略-つまりなにごともないという状態である」

 

「しかし、この非暴力状態は、直接行動と結びつくことではじめて可視化され、力としてわれわれの目の前にあらわれる。たんなる暴力がないという状態ではなく「自治管理社会として非暴力状況をみずからで具現すること」が非暴力社会と呼びうるものである」

うーーんムズい。「隠蔽された剥き出しの生」というアンヴィヴァレントな修辞で締めくくることにする。

 

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