女性柔道選手ではないソネアキラです。
長いことコピーライターをしています。
ほぼ開店休業状態ですが。
『ヒッチコック×ジジェク』ジジェク編というものを、
行き帰りに読んでいて、生き返ります。
ヒッチコック本つーと、大判の『定本 映画術―ヒッチコック・トリュフォー』が
もう定番中の定番で、トリュフォーのヒッチコックへの敬愛に満ちたインタビューは
実に楽しいものだった。
ヒッチコックもトリュフォーもいまはもうどちらも鬼籍の人なのだが。
この本は、ジジェク以下ジジェク一派(フロイトーラカン主義者)から
カイエ・デュ・シネマの執筆者まで
おのおのがヒッチコック映画の素晴らしさを批評している。
ヒッチコックへのいわば小難しいラブレターのようなもの。
ほら、ペンは男性器の象徴であるとか、そっから入って登場人物の設定、
なぜかような人物をつくりあげたのか、
ヒッチコックの精神世界にまで踏み込んで解釈を試みる。
彼の映画を見たことがある人なら、大概気がつくそこらへんを、
例によって実に持って回った表現で書いている。
ええとこんなとこ。
「『裏窓』はパノプティコン(一望監視装置)のヒッチコック的表現であり、ベンサム
およびフーコーのヒッチコック的例証である」
(『完全には死んでいない父親』ムラデン・ドラールより)
たぶんに映画のネタバレやがあるけども、
ヒッチコックは、直接的な殺しのシーンは見せないで、
間接的なもの、意外なものとのモンタージュで、死をイメージさせた。
このカット割を映像で最初に見たとき、驚いた。
それからヒッチコックにはユーモアがあってイキ。
デ・パルマには、そこが欠落している。
めんどくさいんだけど、なれるとおいしいジジェクとクサヤの干物である。
一昔前、ちょっと小利口ぶった若者が、蓮實重彦の文体に感化されたように。
翻訳が内田(樹)くんと鈴木(晶)くんの『大人は愉しい』のオジサンコンビなんで、
いつものジジェクよりはわかりやすくなっている。
イギリス時代のヒッチコックの作品は、ほとんど見ていない。
機会があれば、まとめて見てみたいなあ。