『ロラン・バルトによるロラン・バルト』ロラン・バルト著 石川美子訳を読む。
『彼自身によるロラン・バルト』佐藤信夫訳が旧訳。こちらが新訳。
どうせなら新訳で再読してみることにした。
カバーのバルトに手によるドローイングが懐かしい。
新訳にはこれでもかと丁寧な訳注がついている。
で、栞は2枚用意した。本文用と訳注用。
断章を読む。次に、その断章の訳注を読む。という忙しい読書スタイル。
はじめにバルトの写真が出て来る。子どもの頃から晩年まで。
最愛の母から祖父など家族や友人たち。住んでいた町の風景。
ビスコンティやコクトーの映画、
萩尾望都の漫画に登場するようなバルトの美少年ぶり。
映像に優るとも劣らないモノクロ写真の伝えるメッセージ力の強さ。
気に入ったところをランダムに引用。
「断章の輪
断章で書く。すると、それらの断章は、輪のまわりの小石になる。わたしは自分を丸く並べているのだ。わたしの小さな全宇宙が粉々になる。中心には何があるのか」
「語る/キスをする
ルロワ=グーランの仮説によると、人間は、歩行時に前足を使わなくなり、したがって口で捕食しなくなったときから、話すことができるようになったのだという。わたしとしては付けくわえて言いたい。(そしてキスすること)もできるようになった、と。なぜなら発声器官は、接触器官でもあるからだ。直立姿勢になることで、人間は言語と愛を発明することができたのである~以下略」
引用はしないが「象徴、ギャグ」という断章で映画『オペラは踊る』でマルクス兄弟を賛辞している。グルーチョ・マルクスの常識をぶっ飛ばす屁理屈ぶりやアナーキーさは素晴らしく、こんなこと言うとバルトファンから顰蹙を買いそうだが、どことなく似ている。
たとえば。
「休憩―アナムネーズ」より1か所引用。
「闘牛所通りの一角で、椅子に馬乗りにまたがって座っていたポワミロ大佐。大男で、肌は紫がかって、静脈が浮き出ており、口ひげをはやして、近視で、話しが回りくどくて、闘牛見物の大勢の人が行き来するのをじっと見ていた。大佐に抱きしめられると、なんという責め苦、なんという恐怖だったことか」
ぼく自身、コノテーションやエクリチュールなどの小難しい理論に惹かれていたが、
ほんとのところは散文で書かれる詩的もしくは小説的な断章に
ハートを鷲づかみにされていた。
通常の自伝をあえてバラバラにして断章にしてある。
表現トーンもバラエティに富んでいるが、
ぐっとくるのは、やはり本音と思われることを吐露しているとこ。
訳者の『ロラン・バルト -言語を愛し恐れつづけた批評家』で晩年、
バルトは小説を書こうとしていたことを知る。
でも、それはすでに書かれていたのではないか。
キャッチコピーは、『かわいいウルフ』小澤みゆき編から拝借したもの。
「自伝バラバラ事件」は、釣りサブタイトル。