1960年代の「死の家の記録」

 

 

『穴持たずども』ユーリー・マムレーエフ著   松下 隆志訳を読む。

 

まずは、チモフェイ・レシェトフの解説から、この作品が書かれた時代背景を引用。

 

スターリン死後の1953年、N・S・フルシチョフが権力の座に就いた。彼は国内で一連の自由主義改革を実施し、結果として国家の文化政策が著しく見直された。(非マルクス主義的な)哲学書、宗教書、神秘主義文献など、以前は禁止されていた本にアクセスする道が開けたのである。50年代末、マムレーエフの周辺では、ソヴィエト的現実の枠をはるかに超える関心を持つ人々のサークルが形成されはじめた。これらの人々は図書館の書物で世界の伝統を学びながら、独自の内的探求を行なっていた。彼らは図書館の喫煙所で知り合い、交流した。哲学者、神秘主義者、芸術家、詩人、作家など、多くが社会的な面でマージナルな存在だった。彼らを一つにしていたのは、ソヴィエトの唯物論イデオロギーに対する確固たる不承認だった」

 

このサークルが作品の動機になっていると。

 

頃は1960年代。場所はモスクワ近郊。主人公フョードル・ソンノフが現われる。彼は、いわば、シリアルキラー。しかし、殺人よりも自身の死の世界を希求する。彼が住んでいる共同住宅には、類は友を呼ぶというのか、アダムス・ファミリーよりも、いっちゃっているフォミチェフ・ファミリーの人々がいる。「異常性癖の」クラーワ、ゴミ漁りに夢中なリーダ、自分の肉体を貪り食らうペーチュニカなど。


さらに「敬虔な」キリスト教徒だったのに、なぜか屍鶏に変身してしまった老人ニキーチチ、去勢したミヘイ、「グノーシス的神秘思想の信者で形而上的娼婦」アンナ(よーわからんが結構、魅力的)など、変態ばっか。死と退廃のニオイが濃厚に漂う「形而上派」のメンバーたち。


社会主義体制のソ連の不自由感や閉塞感に不満を覚える人々はイデオロギーのもとに反体制派を標榜する。させられる。小説もSF風味のディストピアものなら、読んだことがある。でも、ザミーチャンの『われら』は、1920年代の作品。この作品が掲げる旗はイデオロギーではなく、カルトやエゾテリスム(秘教)。目には目を。唯物論には形而上学、か。

 

1960年代はヒッピーなどカウンターカルチャーが世界的に広まった。偶然かどうかは知らないが、ソ連でもこのような流れがあったとは知らなかった。マージナル(辺境)における「マージナルな存在」、それが「形而上派」。

 

『まなざしの地獄』見田宗介著の最後の一文が、どんぴしゃ。

「われわれの存在の原罪性とは、なにかある超越的な神を前提とするものではなく、
われわれがこの歴史的社会の中で、それぞれの生活の必要の中で、見捨ててきたものすべてのまなざしの現在性として、われわれの生きる社会の構造そのものに内在する地獄である」


訳者あとがきによると「ソローキンに影響を与えた作家」らしい。アングラっぽく、グロいところかな。ホアキン・フェニックス主演の映画『ジョーカー』を見たときのような苦さ、やるせなさを感じた。


タイトルの「穴持たず」とは、冬眠せず凶暴化したクマを意味する言葉だそうだ。
通常ではない異常なクマ、それはまさしくフョードル以下この作品に登場する人物たちのことだろう。

 

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