昔のレビューをひっぱりだしてみた

 

 この暑さでマスクしているのと
観光地へ行くのはよろしいが、帰省はよろしくないとでは
どちらが狂気の沙汰だろう。

 

感染者数をニュースで見ていてもピンとこないが、
近所のスーパーマーケットや特養老人ホームで出たと聞くと、
うわっとなる。


クオリア系統樹的に辿ると、ベルグソンの直観あたりかな、
うーんと、一寸悩んでたら、おおもとがマッハになるのではないかと思い、
昔のレビューをひっぱりだしてみた。

 

『マッハとニーチェ 世紀転換期思想史』木田 元著より。

 

フッサールからマッハへ。ハイデガーからニーチェへ。作者は「二十世紀思想」の源を辿り、「世紀転換期」へと知的旅行を試みる。

 

マッハとニーチェ、一見すると何の関連性もなさそうなのだが、

「ホーフマンスタールをはじめとする世紀末ウィーンの若い詩人や芸術家にとって『<現代風>(モデルネ)』といえば、マッハとニーチェ-一部略-だったのである」

 

19世紀末から20世紀初頭のアカデミックなアイドルと述べるのは、語弊があるだろうか。しかし、カフェの片隅で彼らについて喧喧諤諤、議論している光景が目に浮かぶ。

 

速度単位「マッハ」が、エルンスト・マッハにちなんで命名されたことは存外知られていないかもしれない。さらにマッハの業績については、本作のタイトルに並列されているニーチェほどには、知られていない。

 

アインシュタイン相対性理論も、ウィーン学団論理実証主義も、ハンス・ケルゼンの実証法学も、どれもこれもマッハの思想のなんらかの影響下に生まれたものである」


フッサール現象学も、ゲシュタルト心理学も。

だから、オーストリアの物理学者であり哲学者でもあったマッハについて本作では大幅に紙幅を割いて紹介している。

 

マッハが唱えていたのが、「感性的要素一元論」なのだが、うまくはしょれないので、長い引用でご容赦していただきたい。

 

「世界に固有の要素は物(物体)ではなく、色とか音、圧、空間、時間(通常われわれが感覚と呼んでいるものである)」「これらの<要素>は、『今までのところ』『それ以上分割しえない究極的な構成分なのである。これに<感性的諸要素>は、相互に函数的に依属しあい多様に関連しあってさまざまな<複合体>をかたちづくる。<物体>というのは、比較的恒常的に現われてくる強固な複合体に与えられる名称、記号なのである』物体が感覚を産出するのではなく、要素的複合体(感覚複合体)が物体をかたちづくるのである。」

 

「こうして唯物論実在論が拠りどころにしてきた<物体>も<物質>も、また唯心論・観念論がいっさいの存在を支える基点としてきた<自我>も、<感性的諸要素>に解体されてしまう」

そして


「残るのは、一元的世界、つまり<現象>の世界だけである」

 

ほおほお、フッサールじゃん。かつ、クオリアも包含されていないだろうか。

この本を通していままで知っていたマッハとニーチェの功績は、あたかも海上に露呈している氷山の一角のようなもので、海の下に潜んでいるその大きさの一端を窺うことができる。

 

かのポール・ヴァレリーが、マッハの著作を知り、長年あたためていた思索とほぼ同じであることに驚嘆し、深く落胆したというエピソードも、興味を覚える。偶然か、必然か、そういうことは、ままあるようで、現代思想の胎動期ならではという気がする。

 

科学は哲学から生まれ、科学は哲学を刺激する。しかし、それは、決して予定調和的ものではなく、見えない糸で結ばれていたり、同時代の空気を吸っている者同士のシンパシーが左右しているのだろう。おっと、きわめて文学的な表現なのだが。そんなことを再認識させてくれた。

 

ただし池田清彦のような唯物論者はクオリアを一笑に伏すだろう。茂木健一郎は、どう理論構築して、どう煮詰めていくか、だ。ぼくはあり!だと思ってるんで。

マッハに関心を持たれた人はマッハの『感覚の分析』を読んでみたらいかがだろうか。
やさしかないけど。

 

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