読了後の率直な感想は、結局、ぼくは事の本質を何も知り得ていなかったということだ。作者は、世界を放浪し、カウンターカルチャー、ニューサイエンスなど様々な事象をリアルタイムで体験してきただけに、洞察が鋭く、深い。たとえばオウム真理教と人民寺院などアメリカのカルト教団との教祖の類似点と相違点。『タントラ・ヴァジラヤーナ』からカバラからシュタイナーなど教義の換骨奪胎の巧みさ。また、オウム本部へ出かけて、幹部との会話から得た文学者としての読みなど。
「オウム事件を生み出したのは、日本人のニヒリズムだ」と作者は述べている。政治はもちろん、経済、教育などあらゆることに関して日本人は、自分たちの国に対して諦めてしまったのではないだろうか。TVや新聞などいわゆるマスコミは、事件が起これば、必要以上にあおり立てるが、次にまた刺激的な新たな事件が起これば、そっちに飛びつき、いつしかはじめの事件は忘れ去られていく。ぼくたちも、まるで新聞社のWebサイトのヘッドラインを拾い読みするように、上っ面だけを知り、すべてを知っているかのように思い込み、消費し、排泄(もしくは忘却)している。
「(オウム真理教の)教義は―略―まるで受験参考書のようにシステマティックであった。だが皮肉なことに、若者たちはそこが魅力的に映ったらしく-中略-無防備に吸い込まれていった」マーケティングと言っていいのか、あるいはプロパガンダと言うべきなのか。オウムは、そこが上手だった。精神世界とインターネットとアニメとサイエンス。偏差値の高い新興宗教というイメージ戦略は、自分の居場所がなかった若者や高学歴のエリートの自負心を大いにくすぐったのではなかろうか。実体は、張り子だったとしても。
麻原彰晃こと松本智津夫が少年時代のトラウマ-作者によれば、弱視でありながら、両親により盲学校にやられ、親に遺棄されたと感じた-をブラックホールのような負のエネルギーに転化し、一連のテロ事件で、社会に報復していく。
「そうした無意識は本来ならば文学にひき寄せられてくるはずである」
要するに、ドストエフスキーなどの著作で人間の在り方、心の葛藤などを疑似体験しておけば、オウム真理教に入信することもなかったのだろう。その時代を反映した、あるいは予測した、オウム真理教に勝るテキストは書かれなかったのだろう。
「文学の衰退と、オウムの台頭は通底しているように思われる。そこが無念なのだ」
そして単なる冠婚葬祭屋になってしまった既存の宗教に対しても厳しく批判している。
頭の中がモヤモヤが本書を読むことで、ようやく晴れてきた。考えさせられたり、目を開かされたりした。しかし、読後感にどこか苦みやエグミが残るのはやむを得ないことなのだろう。
