かゆい

読む哲学事典 (講談社現代新書)

読む哲学事典 (講談社現代新書)

目がむず痒い。花粉は飛散しているという悲惨なニュースもTVでオンエアしていたし。
同病者、諸君、さらに今季仲間入りする諸君、なんとか乗り切っていこう。


『読む哲学事典』田島正樹著を読む。
この本は事典という形式を借りた短いエセーのようなもの。
「ここと私」「知識と信念」など項目が二項目並んでいて、作者が筆の趣くままに書いている。
その柔らかな筆致が魅力的。
そんなに固くなく、かといって斜めから見るのでもなく。
でも、生真面目一本でもなく。
この項目をさらに煮詰めればと思うものも多々ある。


メタ言語と主体性   テクストの中に自分を読む」から引用。

「我々は、そこに何かの行動指針が書き込まれているということも意識せずに、
そのテクストを読み始める。どのように読まねばならないかという
「解読のための指針」も初めはわからない。そこには一般論が書かれているだけで、
主体自身がどうすべきを読み取るのは主体のかってだからである。
しかしやがて主体は、テクストがどのように読まれているべきかを知る。
それは、テクストの中に自己自身を読む瞬間である」

「しかし実際には、もちろんテクストが文字どおり無限の細部を持ちえないのは
明らかであるから(情報量の有限性)、そこに主体が自己自身を読み込むためには、
テクストをアレゴリーと見なし、そこに自己自身を投影するような読み方が、
宗教的テクストの必然となる。このように主体を先取りし、待ち受けている想定された
全知(そこですべてが理解され、先取りされているという幻想)が、特定の人物
(たとえば「偉大なる同志スターリン」)の内に転移される場合、スターリン主義的な
主体が生まれる」


スターリン」のところに作者は「オウム真理教」を当てはめている。
「全知の包括的説明への希求」っていうのは、オカルトだったり、スピリチュアルなものだったり、
とんでも科学だったり、教祖様だったり、テクスト(文字・言葉)で理屈づけできないもの
全般なのだろう。


「読書百篇、意自ずから通ず」をあなたは信ずるだろうか。
「通ず」が正読なのか、誤読なのか、そんなことは、それこそ「主体のかって」だ。
ぼくならさっさと入門書読んだり、無料の文化講演会に参加を申し込んだりするけれども。


にしても、この書名、コンセプト、概念であって、
も少し気の利いた書名にすればいいのにと思う。それこそ「主体のかって」なんだけど。


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