「テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である」

 

 

『掠れうる星たちの実験』乗代雄介著を読む。

 

評論から書評、短編小説まで、てんこもりの内容。

表題にもなっている評論『掠れうる星たちの実験』では「サリンジャーの戦争体験と柳田國男の恋」に通じるものについて述べている。サリンジャー柳田國男、作者が影響を受けた人だが、似ているとは思わなかった。

 

サリンジャーの兵役による戦争体験。それはPTSDのようなもので作品に大きな影を与えている。すぐ思いつくのは、グラース家の長兄、シーモアの不可解な自殺で終わる「バナナフィッシュにうってつけの日」とか。

 

柳田國男田山花袋と文学仲間で親友だった。柳田は文学から離れ、農務官僚となる。官僚時代にたずねた日本各地や人々の生活や歴史に興味を覚え、民俗学へと進む。田山は柳田の恋愛小説を書くが、ネタは本人から提供されたものだという。しかし、民俗学者から見れば田山らの日本の自然主義文学は、とうてい認めるものではなかったと。

 

当該箇所引用。

 

サリンジャーにとって最も重要なのは、博物館の見学者が「いつも同じではない」のと似て、読み手が、どんな状況に書き手があるかをいかに確信できるか、もしくはその反対に、書き手がどんな状況に読み手があるかを確信できるかということだった。それは、生きた「もの」へ通じるための小説である」

 

柳田の場合は、「生きた「もの」へ通じるための」聞き書き民俗学なのだろう。

 

「生きた「もの」の「実験」こそが「事実」であることは紛れもないが、それを書いたものは「事実」ではなくなる場合がある。「誤って真なりとして居たこと」が後で「正しい」とされるのは問題だと、ここでも柳田は繰り返している。
告白嫌いとも言われる柳田だが、その根底にありのは「実験」と「筆で書く話」の「対立」に対する強い自覚である。そこい無自覚であった日本的な自然主義が好ましいはずもなく、その態度において柳田とサリンジャーはますます似てくる」

書評は28本載っている。カテゴリーはバラバラ。書評、特に小説の場合、あらすじを踏まえての感想を述べるのが通常だが、なんつーか作家になるためのトレーニング的書評ではないだろうか。そう決めつけると長めの引用があるのも納得。読んでみたい本も何冊か教えてもらったし。


ぼくも趣味で書評らしきものを書くが、引用だけでいいんじゃないと思うことが多々ある。素晴らしいフレーズ、素晴らしいパラグラフ。作者の小説も引用が多い。ま、それが個性なのだが。

 

短篇『フィリフヨンカのべっぴんさん』には、叔母の死が描かれている。これが、その後「阿佐美家サーガ」に発展する。いわば、原型的短篇。どのようにふくらんでいったかを知ることができる。

 

引用に関してバルトの金言があったはず。あ、これ、これ。

「テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である」―ロラン・バルト『物語の構造分析』「作者の死」より

 

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