「『資本論』を読む」のではなく「『資本論』も読む」。このスタンスでマルクスを読み解く

 

 

『『資本論』も読む』宮沢章夫著を読む。このおもしろさは、も少し脚光を浴びてもいいのになあ。ぼくはたいそう腑に落ちた。

 

作者同様にぼくもずううっと『資本論』を読まなきゃとは思っているが、長いし…。
そのまわりの解説書の範疇は、何冊も読んではいるのだが。

 

表紙のカール・マルクスのご尊顔のイラストレーションが、しりあがり先生。

いーね!

つらつら読んでみると、宮沢流解釈とでもいえばいいのだろうか。音楽でいえば音源なのだが、そのテキストのソース(源)としての魅力的なところを咀嚼して正直に、さらっと書いている。この「さらっ」が書けるようで書けない。

 

研究者・学者の専門家じゃなくて作家・演出家・劇作家からの読み下し。サヨクの教典というよりも、もっと大きな視座から捉えようとしているのかも。

 

柄谷行人の『トランスクリティーク 』の下記の文を引き合いにして、作者は思いを強くする。

 

マルクスの仕事を根本的に『批判』として読むことが何よりも重要なのだ。マルクスの『批判』は、その歴史的文脈がいかに古びたとしても、けっして意味を失わない」

 

作者曰くマルクスは『資本論』を書くのに、なんと40年も費やしたのだから、読むほうもじっくり読まなければと。ましてや論考にまとめるのには。

 

作者は難解なマルクスのいう「商品」の概念をマルセル・モースの『贈与論』にからめて展開している。中沢新一の『愛と経済のロゴス』から、このように「まとめている」。

 

「このようにして資本主義における「交換」から「貨幣」が生まれ、あらゆる「モノの価値(芸術作品すら含む)」が「貨幣」によって換算される」しかし、「「交換の原理」であつかうことのできない「贈り物」という領域があることに着目し、モースの『贈与論』がそこでは大きな意味をもったテクストとして登場することになる。ここでは、「交換」と「贈与」が対称的にあつかわれ、とくに「純粋贈与」、つまりなんの見返りも期待しない「贈与」が「資本主義的交換」とは対極にあるものとされ、「純粋贈与」の、「純粋」にあたる部分に「言葉にならないなにものか」が存在しているかのようだ」

 

「「贈与」という概念はもちろんのこと、「純粋贈与」における「言葉にならないなにものか」の存在をおそらくマルクスは熟知していた。だが、逆に言えば「言葉にならないなにものか」をいかにして「言葉にするか」という作業の過程そのものが「商品」の分析だったのではないか」

 

参考までに、中山元氏の『贈与論』のレビュー。
 古典だがなお刺激的な贈与論 マルセル・モース『贈与論』有地享訳、勁草書房、一九六二年

 


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