リア充に不可欠な「贈与」って

世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング)

『世界は贈与でできている-資本主義の「すきま」を埋める倫理学-』近内悠太著を読む。「贈与」というと、マルセル・モースの贈与論やポトラッチあたりかなと思って読んだらハズレでした。

 

作者は贈与をこのように定義づけている。

 

「僕らが必要としているにもかかわらずお金で買うことのできないものおよびその移動を、「贈与」と呼ぶことにします」

「お金で買えないもの。実は僕らは、この正体が分かっていません」

「家族や友人、恋人など、僕らにとって大切な人との関係性もまた、「お金では買えないもの」です」

 

単純な三段論法だと「お金では買えないもの」=「家族や友人、恋人など関係」=「贈与」だと。たとえば子育て。

 

「親は贈与の宛先である子から生命力を与えられていたのです。単なる義務感だけでは子供を育てられるわけがありません。子から観れば「親からの一方的な贈与」ですが、実は、親は子に生かされているのです」「親は子に与えることで与えられてもいた」

 

 

「教育は共育」というフレーズを久しぶりに思い出した。

 

歴史をなぜ学ぶのか。作者の答。

 

「ある歴史的な出来事には、さまざまな偶然的なファクターが関与しています。歴史を学ぶというのは、そこに何ら必然性がなかったことを悟るプロセスでもあります。この世界の壊れやすさ。この文明の偶然数。これらを気づくために僕らは歴史を学ぶのです」

 

換言すれば、セレンディピティってことだよね。

 

作者の専門であるウィトゲンシュタインウィトゲンシュタイン言語ゲームについて述べているところを引用。

 

「語の理解が確実にできているから、言葉を使えるのではありません。そうではなくて、その語を用いて他の人と共に滞りなくコミュニケーションが取れてから、語の意味が理解されているのです。―略―ウィトゲンシュタインは、そのようなゲームを
言語ゲーム」と名づけました。野球に限らず、将棋もチェスも、そして言語的コミュニケーションも、人間の営んでいるあらゆる活動が言語ゲームとなります」

 

となると、ひょっとして人間はこの言語ゲームの中に幽閉されているのではないかと思うかも。

「一人での言語ゲーム」。スマホなら一人でもいろいろなゲームができるけど。

 

「他者理解において僕らがやるべきは、―略―一緒に言語ゲームをつくっていくことかもしれません」


作者は明快に答えている。

 

贈与は交換ではない。ギブアンドテイクでもない。まして、ウィンウィンの関係なんてとんでもないと。贈与は見返りを求めない。求めてはいかない。功利的なものではないと。このあたりをよーく考えて行動してみれば、「贈与によって、僕らはこの世界の「すきま」を埋めていく」ことで、生き方は変わり、それこそリア充が送れると述べている。


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