堀田善衛はインドで考えた。
椎名誠もインドで考えた。
開高健はベトナムで考えた。
ポール・ニザンはアラビアのアデンで考えた。
ロラン・バルトはモロッコで考えた。
ヘンリー・ソローはウォールデン湖で考えた。
『うしろめたさの人類学』松村圭一郎著を読む。
「エチオピアの田舎町を歩くと、よく「おかしな」人に出くわす」
「日本に生きるぼくらは、どうか。」
ぼくが子どもの頃はまだ一日中町中を走っている人がいた。
小学校低学年の時、特殊学級ができた。
いまの日本は要するに隔離もしくは隠蔽されている。
でなければ
「「見なかった/いなかったこと」にしている」
それはなぜか。正しいことなのか。
正しくなかったら変えることはできないのか。
それを作者は「構築人類学」と述べている。
再構築なのか、脱構築なのか。
エチオピア暮らしから「構築人類学」を考察している。
マルセル・モースの『贈与論』を引きながら
「「商品交換」と「贈与」」を比較している。
「商品交換」=「経済化」
金がからむ
「贈与」=「脱経済化」
金がからまない
「贈与」=「脱経済化」の一例で
「子育て」を挙げている。
曰く「無償の愛情」であると。
イヴァン・イリイチの提唱したシャドウワークと重なる。
「よりよい社会/世界があるとしたら、どんな場所なのか」
作者はこう述べている。
「「公平=フェア」な場」
であると。
その一環として男女雇用機会均等法、正規・非正規社員の格差の解消、
LGBTなどのダイバーシティへの取組みなどが始まっている。
でも、「公平さの確保」に必要なのが「うしろめたさの倫理」だと。
「国や市場」のせいにせず、個々人レベルで「うしろめたさを起動」させることだと。
「ぼくらにできるのは「あたりまえ」の世界を成り立たせている境界線を
ずらし、いまある手段のあらたな組み合わせを試し、隠れたつながりに光をあてること」
そうすることで「うしろめたさ」が伝播すると。