- 作者: ジルドゥルーズ,Gilles Deleuze,宇野邦一
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1998/10
- メディア: 単行本
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といっても18禁ネタじゃない。
忘れていたが、勤労感謝の日の夜から
通勤路の道沿いの家でクリスマスのライトアップが始まった。
薄暗い路地なので、防犯の意味も兼ねているような。
脱原発なのではなく、卒原発なのね。
も少し時期が早かったら、流行語大賞にノミネートされていただろう。
脱構築を卒構築。んーん、イマイチ。
『ライプニッツとバロック 襞』ジル・ドゥルーズ著を読んだ。
未消化ながらも、はっとさせられるフレーズが特盛。
何か所か引用。
モナドがわかりにくい。
ドゥルーズは、それを「襞」に置き換えて、検証していく。
だから、わかりやすいか。否。
「モナドには「そこを通って何かが出入りできるような窓はない」。
モナドには「穴もなければ門もない」。−略−絵画はまだ外部的な
モデルにしたがっており、まだ窓なのである」
訳者あとがきでこう書いている。
「「モナドに窓がない」といいながら「モナドは全宇宙を表出する」
というライプニッツのなかにも、やはり分裂が存在している」
禅問答のようだけど、自己表出とはそういうものらしい。
「<ゴチック>は、構築の諸要素、堅固な枠組み、その軽やかな充填を
強調している。<バロック>は物質を強調するのだ。枠組みは全面的に
消えることもあれば、残されることもあるが、粗野なデッサンにかかわらず、
それをはみ出、その上を越えていく塊りを内におさめるには十分でない」
『ルネサンスとバロック』ハインリッヒ・ヴェルフリン
そもバロックは「歪み真珠」のこと。
マチエール主義ととでもいうのか。
「われわれの世界とテクストを表現するのはもはや不協和音
ではないが、われわれはライプニッツ主義者であり続ける。
新しい外皮とともに新しい折り方を発見するが、
われわれはライプニッツ主義者であり続ける。
なぜなら問題はあいかわらず折ること、折り目を拡げること、
折り畳むことだからである」
バタイユが『眼球譚』で、眼球、卵、牛の睾丸、太陽と
球をメタファーにあつかっていたが、
襞とて、その内奥する世界は広い。
何も肉襞ばっかじゃない。
小腸の輪状襞、心の襞、菌褶、仏像の裳裙から
三宅一生のプリーツプリーズまで。