今こそアーレント

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

今こそアーレントを読み直す (講談社現代新書)

『今こそアーレントを読み直す』仲正昌樹著を読む。
なぜか先が見えなくて、もやもやしたりすると、
著者の本が読みたくなる。当たりだった。


左翼VS右翼、民主党VS自民党、小さな政府VS大きな政府などなど。
とかく人は、二項対立を好むようだ。
なんとなく自分の立ち位置が分かったようになるからだろう。
ところが、実際は、そんな単純明快にはいかないわけで。
現実が単純明快にいかないからこそ、
うわべだけでも単純明快にいきたい。ともいえなくはないが。
なぜ「今こそアーレント」なのか。
ハンナ・アーレントの考え方に時代が追いついてきた、
もしくは最もフィットする思想家の一人だからだ。


決してわかりやすくはないのだが。
仲正流解釈のアーレントだと、こうなる。

「理解できない“理由”で人を殺す人間がいること」を、
「左派は格差社会・新自由主義に、右派は教育の場としての
家庭や地域の機能低下に求める傾向があるが、いずれの側も
−略−「心の闇」として捉えようとする点は共通している」

これは

アーレントの「人格=仮面」論から見れば、−略−全くもって
無意味なことである」

「問題なのは、公/私の境界線がどんどん曖昧化して、
「心の闇」に押し込めておくべきことが、表出してしまうことで
あって、「闇」があること自体ではない。「闇」は誰の内にも
常にあるのである」

誰にでもある「心の闇」が、どうしてマグマのように
噴出して凶行に走るのか。
統計的には凶悪犯罪件数は減っているはず、確か。
したり顔で「心の闇」のせいなんだと一応理由らしきものがあれば、
説明はつくからなんだろうね。

マルクス主義にとって、人々が同じように「労働」することによって、
ライフスタイルや価値観を共有し、連帯することのできる共産主義社会は
ユートピアであるが、アーレントからしてみれば、物質的な利害によって
均質化された、非「人間」的な世界である」

「均質化」とはかつての「一億総中流社会」幻想なのかしらん。

アーレントは−略−“弱者のため”あるいは“真の自由”という名目で、
特定の方向に向かう議論以外は封じ込めようとする風潮には徹底的に
抵抗する思想家である」

流されるのは簡単だけど、うざいと思われながらも、
ともかくこの流れでいいのか、こっそり逆らってみたり、
違うところから眺めみたりすることは、必要なことだろう。
相変わらず2ちゃんねるに代表される匿名ネット社会には厳しい。

思い出した。以前、ハンナ・アーレントの『人間の条件』の感想を書いていた。

労働か仕事か

アーレントは、人間であるための3つの条件をあげている。
(1)労働(2)仕事(3)活動」

(1)労働(2)仕事については、ぼくの感想メモを参照されたし。
で、(3)活動なのだが、これもまたアーレント独特のタームで。

「古代ギリシャやローマの都市国家における「活動」である」
「自分と同じように思考しているであろう他の「人格」を前提にし、
(言語や身振りによって−ソネ付記)それに働きかける営みだ」

そして

「言語による「活動」は、人々の物に対する見方を多様にするのである」

多様性を押しつぶして地ならししてしまうのが均質化された「全体主義」だと。
なるほど。


人気blogランキングへ