だらだらだらと

瀬名秀明ロボット学論集

瀬名秀明ロボット学論集

『ロボット学論集』瀬名秀明著の読書メモ-2。
だらだらだらと。

櫻井圭記との対談で廣松渉の『共同主観的存在構造』が出てくる。
懐かしや。その本より櫻井が引用した箇所を引用。

「遠隔的にあやつられる身体的自我とそれをあやつる能知能動体との
二重的存在の意識が既成のものとなり、
他者もそのような存在として了解する事態が生じたとすればその段階では、
第三者的に記述する立場から、他人が能知能動的主体として覚知されるに
至っている、と呼ぶことが一応は許されうるであろう」

難解な一文を櫻井はこう解釈している。

「(人形使いが−付記:ソネ)遠隔的にあやつられる他者である人形を、
本当に意のままに操れるような事態が生じたときには、
第三者的に記述する立場から見れば、その他者(人形)も主体的に
認識されるに至っているのではないかという話ですね」

それはシンクロしていることであり、一心同体ってこと。
「自我」の芽生えや主体性なのではないかと。
人形愛というフェティッシュモードがロボットだとどうなるのだろう。
イヌ・ネコが家族の一員ってノリなのか。
だとしたら捨てロボットだのホームレスロボットだのという話になるが。


「ぼくは小説の中で「クオリア」という言葉を使わないようにしているのですが、
−略− ぼくは「記憶のタグ」みたいな感じで考えているのです」
「りんごの赤い感じ」のみならず、「齧ると、つぎの行動があって、
時間的な経過があって、つながっていく感じがする」
「そこから次にくるストーリーは、
ほんとうに体験したことでなくてもかまわない」

「記憶のタグ」とは素敵な言葉だ。属性や履歴ってことで
ほんとも、うそこも包含されている。


「たぶん違和感は、動物的な本能で自分の生存を守るというところから
発達した心の働きなんでしょう」
「ぼくたちは違和を感じたり、感じなかったり、創造性を発揮したりと、
違和の感覚を操ることで社会の中で生きていく能力を備えているのです」

「動物的な本能」や「違和感」は、リテラシーってことなのかな。
金子みすずの詩のフレーズみたいに「みんな違ってみんないい」ってことかも。
ただし差異と差別が同じ土壌にあることを忘れないようにしないと。


「今後のロボット学はむしろ本来の哲学にも似て、
さまざまな科学/技術分野とコラボレートしつつ自在に領域を跨ぎ、
行き来し、融合と発散を繰り返すのではないか」

昔流行った身体論がロボット学じゃ義体論としてリニューアルオープンするようだ。
この本で作者は和辻哲郎市川浩を取り上げているもの。


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