「分解の哲学」を分解する

 

 

『分解の哲学 腐敗と発酵をめぐる思考』藤原辰史著を読む。

福岡ハカセの「動的平衡」を「分解の哲学」の端緒にして。

生物学者福岡伸一も、生命が「合成することよりも、分解することのほうを
絶えず優先している」と述べている。―略―合成以上に分解を進めていかないと
エントロピーの法則に逆らって生命を維持することができない。福岡はこれを「動的平衡」と呼ぶ。」


作者は「動的平衡」が「人間とそれ以外の生物、人間と人間のかかわり合い」にも「有効」だと。

 

廃プラスティックの海洋汚染問題が頭に浮かぶ。魚が生きていけなくなれば、いつかは人間も。

「そもそも、「分解」とは何か。その分解という概念の源流への旅として生態学の「分解者」概念を追っていった。生産者、消費者、分解者という生態学の三つのカテゴリーの境界が曖昧であり、しかも、一つの個体のなかにも、消費と分解という二つの現象が共存することもある」

ありていに言うなら、循環型社会の実現には生産者と消費者そしてもう一極、分解者がある。この分解者にもっと着目しようということなのだろうか。動脈産業に対しての静脈産業ってことか。

「農業史、食の思想史」が専門の著者だが、そのフィールドは広汎。
テーマがいい具合いにバラケていて、読みながら発見があったり、
読み終えてから「そういうことか!」と時間差での気づきが得られた。

 

例えば、こんなところ。3か所引用。

 

「昆虫は蛹になると自分でいったん体をドロドロに溶かし、まったく別の生物に羽化する。動物の世界では、産卵のために川に上ってきた鮭の栄養豊富な部位だけクマに食われ、その残飯が森の動植物と微生物の食料になり、最後は土の肥やしになるように、死は生に属するのである」

なんの、なんの。江戸時代の日本人は鯨を余すことなく利用していたではないか。
アメリカの捕鯨船は鯨油をとった鯨は廃棄していたかというと、肉をステーキにして船員が食用にしたことをメルヴィルの『白鯨』で知った。


「これらの生物界の分解は、人間社会の修理行為にも親和性がある。着物はほどくとふたたび長方形の部分に分けられ、それを仕立て直すことができるように、「とく」ことは、「はじまる」ことの前提であり、―略―分解とは時間の始まりにほかならない」

作者は一例としてブームになっているといわれる金継ぎ、金繕いを取り上げている。
割れたり欠けたりした陶器を漆で接着、金などの粉で仕上げる伝統的技法。

 

「積み木は、積み上げるときに負けず劣らず崩れるときにも子どもを興奮させる。崩れ方だけでなく、崩れたあとの有様からつぎなる想像と創造の糸口を探すことが、教育学者のフレーベルにとって子どもの教育の重点でもあった」

さらに

「積み木は「形づくられすぎて」いない、あるいは「完成されすぎて」いない」


ただの直方体が秘密基地の柱になったり、地球を滅亡させる巨大ロボットの脚になったり、子どもの創造力で変幻自在だ。フレーベルによるとつくって壊す、分解することで「全体と部分」を体感するとか。

 

付記

作者が書いていたカレル・チャペックへの論考が実に魅力的。
代表作しか読んでいないのでぜひ他の作品も読んでみよう。


人気blogランキング

「評価しないけど受け入れる」「嫌いだけれど共存する」―ロジャー・ウィリアムズに学ぶ

 

 

『不寛容論-アメリカが生んだ「共存」の哲学-』森本あんり著を読む。

 

イギリスから新天地アメリカへ渡ったピューリタンアメリカを建国した。
歴史の時間で学んだ。作者はこう述べている。

 

「彼らは、自分たちの自由を求めて移住した。旧世界で不寛容と迫害に苦しめられたからこそ脱出したのだが、その彼らが新世界で作ろうとした社会にも、意見の違う人は少数ながら必ず出てくる。すると彼らは、さんざん自分たちが苦しめられてきたはずの不寛容を、今度はその少数者に向けて迫害するようになった。実に皮肉で残念な事実である」

「不寛容を非難して「寛容になれ」と言うことは、寛容の押しつけになってしまうだろう」すなわち「寛容の強制」だと。

「一般に西洋近代の価値観の中では、寛容であることは「よいこと」だろう」

あなたが「寛容な人だ」と言われれば悪い気はしないだろう。
ところが、
「そういう価値観を簡単に共有しない文化もある」

「寛容と不寛容のせめぎ合い」地獄から逃れるには「不寛容の理解」が大事だと。

 

「「アメリカの原罪」と言われる先住民排除の問題」もその一つ。
「この問題と正面から向き合った」のが、ロジャー・ウィリアムズ。
ぼくはまったく知らなかった人。
この本ではかなりの紙幅を割いて取り上げている。

 

イギリスでは高名な神学者だった「ウィリアムズは渡航後」、牧師の「招聘を断ってしまう」。彼は「英国教会の腐敗」「植民地政府の不寛容な決まりにも異議を唱えた」。さらに「先住民族の権利を主張した」。


その真意を受け止められる人は恐らく皆無に近かっただろう。
危険思想の持主と見なされて彼は「マサチューセッツからの退去」を命じられる。

 

ウィリアムズを追放したのは「論敵」ジョン・コトン。コトンとの文章による激しいバトルは、平行線のまま。

 

ウィリアムズは単身で先住民との交流を行い「彼らの土地を譲り受け」定住する。
この地が「プロヴィデンス拓植地」、「現ロードアイランド州」を建国する。
そこでは「政教分離と信仰の自由」と「先住民との交流・共存」を理念とした。

 

中でも「信仰の自由」は多くの人を魅了したが、実際に州づくりを行ってみると、問題が山積。異論や反論もある。事態を進展するにたね、ウィリアムズには妥協が求められる。意見を無視して推し進めたい。でも、それでは不寛容の再現となる。

 

では、どう接していたのか。

「ウィリアムズは一貫して「評価しないけど受け入れる」「嫌いだけれど共存する」という態度だった」

 

文化多様性が大事といわれている。一方でナショナリズムの復活ともいわれる。

「評価しないけど受け入れる」「嫌いだけれど共存する」、これができるかどうか。
政治家だけじゃなくてあなたにも私にも、だ。


人気blogランキング

ハルヲファンはぜひ!ハルヲファンでない人も

 

 

『調子悪くてあたりまえ 近田春夫自伝』を読む。
70年の人生と半世紀にわたる音楽人生が書かれている。
週末に一気読み。

 

とりとめのない感想を。

 

ぼくがはじめて彼を見たのは『ぎんざNOW!』。
コーナー司会をしていたと思う。
で、近田春夫&ハルヲフォンの『恋のT.P.O』を聴いてぶっ飛んだ。
(この本でピストン西沢もそのことを書いている)
前半のムード歌謡風から一転ロックンロールに転調する。
軽妙なしゃべりとコミックバンド風に見えるが、うまい演奏。
すぐさまシングルレコードを買いに行った。

 

何せ慶応幼稚舎からの慶応ボーイ。中退してしまったが。
当時の慶応幼稚舎やピアノのレッスン、まだ田舎感の強い世田谷などの思い出。
幼稚舎は小ぢんまりとしていて大金持ちの家の子もいたとか。
中学、高校でよそから頭の良い子が入って来たと。

 

創刊間もない『anan』編集部でアルバイトをする。
当時の最先端の人やカルチャーは刺激的だったが、
音楽、バンドがやりたくて本来の進むべき道に戻る。

 

ところがMCもこなせるし、久世光彦のTVドラマにも出るなど
一時期はミュージシャンよりもタレントとして売れていた。
再び、これは違うと音楽の道へ。

 

一般の人よりもギョーカイ内での評価が高い人。
とにかく先見性のある人。

 

謡曲評論やアイドル評論も草分け。
『POPEYE』の連載コラム「THE 歌謡曲」、『週刊文春』の連載コラム『考えるヒット』は、毎回、読むのが楽しみだった。
謡曲に興味を持ったのはカメラマン小暮徹の影響らしいが。

 

近田春夫&ハルヲフォンの『電撃的東京』は、歌謡曲とロックを融合させた意欲作。
評論家でありながら実作者でもある彼ならではのセンスが光るアルバム。
筒美京平の凄さを知らしめたのは功績の一つだろう。

 

音楽もロックからパンク、テクノポップ、ヒップホップへと
目まぐるしくスタイルを変えている。

 

内田裕也一家の出なので、小室哲哉は弟分になるのか。

 

はっぴいえんどはフォーク」という名言も。
作詞担当の松本隆も確か慶応のはず。
でも、売れて忙しくなる前のYMOのメンバーと組んで楽曲をつくっている。

 

近田春夫&BEEFは見に行った。BEEFは後のジューシィ・フルーツ

近田春夫&ビブラトーンズも見に行った。というよりも踊りに行った。

 

ラップバンド、ビブラトーンズはライブには行けなかったが、
インディーズ盤を持っている。

 

CM音界ではヒットメーカー。
知られているところでは、TOTOウォシュレットや爽健美茶など。

 

楽曲提供で記憶に残るのはハウス歌謡曲小泉今日子『Fade Out』かな。

 

ステージ4のS字結腸がんに罹るが、寛解
このあたりもさらっと書かれているが。
かつてはオカッパヘアーだったのに、薄くなったのは抗ガン剤のせいか、加齢か。

 

本人はいつでもヒット曲を出して「紅白歌合戦」に出場できるよう
晦日のスケジュールは開けているとか。


この本のプロモーションでいろんなラジオ番組に出ていたが、
まったく変わっていなかった。つーかパワーを増しているように思えた。

 

近田春夫が古希とは。どおりでぼくもジジィになるわけだ。

YouTubeから近田春夫作品を

 

TOTO ウォシュレットTVCM


www.youtube.com

歌っているのは確か巻上公一(ヒカシュー)

 

近田春夫&ハルヲフォン『恋のT.P.O』


www.youtube.com

エレクトリック・ラブ・ストーリー


www.youtube.com


www.youtube.com



人気blogランキング

人生のマウントを取る女

 

 

『魂を漁る女』レオポルド・フォン・ザッハー=マゾッホ著 藤川芳朗訳を読む。

 

青年士官ツェジム。その幼馴染のドラゴミラ。ツェジムは、久しぶりに会った彼女の美しさに心を奪われる。そのツェジムを慕っている少女アニッタ。親はアニッタとの結婚相手にソルテュク伯爵を望んでいる。しかし、伯爵もまたドラゴミラに惹かれている。四角関係で互いに押し合い引き合いする。

 

ドラゴミラには秘密があった。彼女はカルト宗教の熱烈な信者だった。アポストル神父の命じるまま彼女の信奉している教義に反する者は拉致して、カルト宗教への強制的な宗旨替えを迫る。その方法は、拘束や折檻。転ばなければいとも簡単に殺戮する。かような殺人事件が立て続けに起これば、警察も動き出す。

 

怪しげな供儀、屠(ほふ)りの儀式のさまは、ふとアリ・アスター監督の映画『ミッドサマー』を思い出す。

 

文庫版訳者あとがきの一文を引用。

「作者がドラゴミラに具現させているのは、押し寄せる西欧の合理主義にたいする、非合理主義(=土着の神秘主義)のひとつの反撃であろう。19世紀のスラヴ人にとって、一方にはロシアの既成宗教と教会の堕落が、もう一方には西欧の科学偏重と神の否定があって、その狭間でこの小説に描かれているような異端信仰はその勢いを増しこそすれ、衰える気配はなかった。悲惨な宗教殺人も後を絶たなかったのである。
(白石治朗著『ロシアノの神々と民間信仰』参照)」

しかし耽美派文学の巨匠マゾッホは、オカルト小説なんて書きたかったのではないだろう。あくまでもドラゴミラの物語。

 

文中で彼女を女性戦士アマゾネスをたとえに挙げているが、SMクラブの女王様タイプ、高身長、筋肉質。ドラゴミラは男装の麗人や看護師や百姓女などさまざまにに変身してターゲットに近づく。正体を知られぬようにというよりも、なんかコスプレを楽しんでいるような。

 

クライマックスシーンは、仮面舞踏会。スルタンのお妃に扮したドラゴミラは、ツェジムと伯爵を釘付けにする。愛しのツェジム様をとられてたまるかとアニッタは可憐さをかなぐり捨てて立ち向かう。ドラゴミラvsアニッタ。宝塚歌劇のようでもある。少女漫画のようでもある。

 

信仰か恋愛かなどの悩みは一切なし。多少はあるかな。自由奔放。常に恋愛でもなんでも人生のマウントを取る女。なんだかカッコイイ。なんだか新しい。ドラゴミラの「ド」は、毒婦の「ド」、ドSの「ド」。

 

soneakira.hatenablog.com

 

人気blogランキング

不器用ですから。不器量ですから

 

 

『事故係 生稲昇太の多感』首藤瓜於著を読む。


『脳男』で江戸川乱歩賞を受賞した作者の受賞後第一作。この受賞第一作というのは、とかく真価を問われるものらしいのだが。おどろおどろしいのか、恐ろしいのかと期待して読んでみたら、裏切られたんだな、これが。良い意味で。

 

主人公、生稲昇太(いくいなしょうた)は、突然死した父の跡を継ぐべく、高校卒業後、警察官となる。父は交番勤務で労苦をいとわず町の人々に親しまれていた。いわば彼の理想の警察官である。彼は、不器用で、不器量。対極的なのがチームを組んでいる先輩の見目。その名の通り見目麗しいハンサムで大学卒、転職して警察官となったが、エリートビジネスマンのように仕事を率なくこなし、昇太が密かにあこがれているマドンナ・大西碧ともつき合っている。

 

見目は、試験勉強に明け暮れ、ひたすら上をめざす。なにせ公務員は試験に受からなければベースアップは望めない。これは、公務員だった父親がぼくに良く話していた。

 

彼の配属先は交通課事故係という、まあ地味なセクションである。昇太は、一日も早く殺人など話題になる事件を担当したいのだが、まずは交通事故の処理。だが、父親譲りの誠心誠意というのだろうか、些細な事故でも原因の追求に躍起になって調べ上げようとする。


一方、省エネチックに、クールに処理しようとする見目。時々、ぶつかり、対立して、あらぬ方向へと事態は進展し、結果的に彼の暴走となり、お叱りを頂戴する。

 

本作は、5つの短篇からなっているが、仰々しい事件はない。ごくごく日常的なドラマを描いている。しかし、知っているようで内実は、ほとんど知られていない事故係の業務内容や警察官の生態、警察署と社会の係わり具合、マスコミ対応などが、実にリアルなのだ。何やらルポルタージュを読んでいるような錯覚に陥らせる。見目以外にも実に嫌な上司、今は落ちぶれているが、昔は切れ者だった退職間近の警察官など、キャラクターが上手いね。

 

あえて仰々しい設定は避けて、一応警察物なんだけど、何の変哲もない。下手すりゃ『さすらい刑事純情派』になりかねない。でも、踏みとどまって、きちんと読ませる。そのあたりに作者の意気込みをみるのだが。

 

面白いなと思ったのは、昇太の容貌のこと。かなりディテールまで書き込んで、醜男(ぶおとこ)ぶりをアピールしている。その容貌がインフェリオリティ・コンプレックスになって、卑屈な性格になってしまったのか。だけど、その卑屈ぶりが、読み手に共感を与えている。

 

ひょっとして作者は「脳」の次は、「顔」を書きたかったのかなと勘ぐってしまうほど。だって、顔の部位は性器をシンボライズしているとか言うじゃない。また、レヴィナス言うところの「顔の皮膚は、最も赤裸々で、最も貧しいままの皮膚である。顔貌には本質的な貧しさがある」。だから、粧(よそお)うのだ。

 

とりあえずミステリーのカテゴリーで、ま、新人警察官の奮戦記であることには違いないのだが、そこに納まりきれないものを感じてしまった。何か裏があるんじゃないのかな。というのは、深読みしすぎか。でも、決して、嫌いじゃない。

 

人気blogランキング

正統派のメールヘンと大人のメールヘンと

 

 

くるみ割り人形とねずみの王さま/ブランビラ王女』E.T.A.ホフマン著 大島かおり訳を読む。

 

くるみ割り人形とねずみの王さま』
チャイコフスキーの『くるみ割り人形』の原作として知られるメールヘン。


クリスマスイブになるとシュタルバウム家の子どもたちは、ドロセルマイヤーおじさんの手作りのプレゼントを楽しみにしていました。上級裁判所顧問官のおじさんは見た目はカッコ悪いけど、手先が器用でなんでも作るのです。直すのも得意です。

 

娘のマリーはおじさんのお城のミニチュアよりもパパが送ってくれたくるみ割り人形が気に入りました。ところが、兄のフリッツが贈り物の軽騎兵の人形とともに手荒に扱って歯が欠けてしまいました。おじさんに大至急直してもらわないと。

 

寝静まった夜に現われたのはなんと7つの頭の大ねずみ。ねずみ軍の王様です。いざ、人形軍とねずみ軍の対決です。人形軍を率いるのはくるみ割り人形でした。一進一退の攻防。危うし人形軍、危うしくるみ割り人形。マリーは自分の靴を脱いでねずみの王様に投げました。

 

病床に伏せたマリー。枕元へねずみの王様がやって来てお菓子を渡さないとくるみ割り人形を噛み切ると脅します。くるみ割り人形は実はドロセルマイヤーおじさんの甥でした。悪い魔法でくるみ割り人形にされたのでした。夜、物音がしました。マリーはまたねずみの王様かと思ったら、くるみ割り人形でした。彼はマリーなどの励ましを力にねずみの王様を成敗したそうです。

 

お礼にマリーは人形の国へ招かれます。「氷砂糖の野原」など夢のようなおいしい楽しい世界が広がります。マリーのおかげで魔法の封印が解けて凛々しい若者に戻った甥のドロセルマイヤー。彼はマリーにプロポーズしました。二人は人形の国で幸せに暮らしましたとさ。

 

もし、あなたの家にくるみ割り人形があったら、王子様の仮の姿かもしれませんよ。 

 

『ブランビラ王女』
こっちはメールヘン調で書くのはムズい。「ジャック・カロ*風のカプリッチョ(狂騒曲)」という副題がついている。大人のメールヘンのようなものか。美貌のお針子ジアチンタに入れあげている役者ジーリオ。

 

『ブランビラ王女』とは誰か。ジアチンタなのだ。ジアチンタに求婚したアッシリアの王子コルネリオがジーリオ。一筋縄ではいかない話。途中、ジーリオはカピターノ・パンタローネと決闘して亡くなる。でも、同一人物であるはずのコルネリオはピンピンしている。劇なら役者の早変わりをみせる感じ。すれ違いとややこしさを味わうのだろう。

 

識名文喜の解説によるとオペラ化されているそうだ。文字で読むよりも舞台で見る方が案外混乱せずに楽しめるかも。何せホフマンは作家になる前は「作曲家、演出家」だったのだから。1人で何役もの登場人物を演じるのはコメディーではありがちな手法だが。華麗なるドタバタ喜劇。

 

*ジャック・カロ「ホフマンお気に入りの版画家・戯画家。グロテスクで滑稽な表象世界を演出するカロの手法はホフマンの創作原理に影響を与えている」識名文喜の解説より

 

soneakira.hatenablog.com

 

soneakira.hatenablog.com


人気blogランキング

「B級エンタテイメントとしての推理小説のパロディ」少しは期待したのだが…

 

 

 

アラン・ロブ=グリエの『反復』、読み終える。
訳者の平岡篤頼があとがきでロブ=グリエと食わず嫌いせずに、
深読みしたり、構えずに、ミステリー(ただしオチのない、謎解きのない)として
読んでほしいと述べている。
ええと訳者曰く「B級エンタテイメントとしての推理小説のパロディ」か。

 

「私」が空間軸と時間軸が取り払われた迷路でさまようさま。そのリフレイン。
まさに、ロブ=グリエ。

 

ヌーヴォーロマンとかアンチロマンとか
ブームの去った後に、読み出した。
当時の文学少年・少女の通過儀礼みたいなものだったのだろうか。

ナタリー・サロート、サミュエル・ベケット(不条理ギャグの部分 ベケットはヌーヴォーロマンではないが)、ミシェル・ビュトール、初期のフィリップ・ソレルス
ル・クレジオ(彼がこの範疇に括れるかどうかさだかではないが)は読めた。
あとは、誘惑されなかった。

 

アラン・ロブ=グリエの『嫉妬』は読んだはず。読了したかどうかは忘れたが。
『消しゴム』はすでに絶版で、神保町の古本屋で高値で売られていた。
(付記-1 中条省平の新訳で光文社古典新訳文庫から出ている )

 

彼が脚本を書いた『去年マリエンバートで』は、映像を見る映画だった
(これって、誉めてないとき、使う言い回し)。
それはそれで面白かったが、カメラがやたら回転して、
ちょっと船酔い状態になった。
そのあと、随分、それをパクったようなTVCMを見かけた。

 

『反復』は、キルケゴールの作品から引用したもの。
なぜか最近読む本でキルケゴールの名前をよく見かける。

かつてキルケゴールのゼミを履修していた身としては、
実存哲学の先がけよりも、現代人のはしりみたいに、
キルケゴールをとらえ直してみてはと思う。
いまの日本人の精神構造なら、よくわかるんじゃないかな。
(付記-2 草食系男子の草分けだし)

 

ポール・オースターを読んだとき、
ヌーヴォーロマンの進化系なのかなと感じたが、
こちらは興味深く読めた。

 

最後まで読んだ。読みやすい翻訳だ。でも、やっぱり、誘惑されなかった。
少しは期待したけど、反(アンチ)文学ならぬ半(ハーフ)文学。
クリープを入れないコーヒーのようだ。って中高年限定でウケる言い回し?
これなら本職のミステリー作家の作品を読んだ方がよっぽど、面白いや。

 

人気blogランキング